ヤマト政権の内部抗争と地域王権「タニハ」(丹後王国)の衰退ー②
前回、ヤマト政権の内部抗争と地域王権「タニハ」(丹後王国)の衰退ー① では、北タニハの衰退は、四世紀末の佐紀政権内部での抗争が大きく影響したのではないかと...
前回、ヤマト政権の内部抗争と地域王権「タニハ」(丹後王国)の衰退ー① では、北タニハの衰退は、四世紀末の佐紀政権内部での抗争が大きく影響したのではないかということで話を終えた。 四世紀代の丹後の大首長と佐紀政権とは親密な関係を保ち、築造する古墳も酷似していたが、体制派の系列に属していたため、四世紀末の内乱の結果、その勢力が弱体化してしまう。 五世紀に入ると、 北タニハでは王墓は縮小してしまい、丹後の古墳の独自性も失い、次の大首長墓は、もはや北タニハ(丹後半島)にはなく、篠山盆地東部に遷っており、タニハの独自性どころか畿内型の前方後円墳と成り果ててしまう。
さて、四世紀末の佐紀政権内部の内乱後、丹後半島ではどのような政治集団が台頭して来たのだろうか。「天火明命」を祖神とする尾張氏系統(海部氏)の出現がタニハに影響をもたらしたのではないかと考えている。 「丹後国一宮「籠神社」2019年4月29日(月)参拝 母系制から古代を考える②ー丹波氏の祖変 を参照頂きたい。『母系制の研究』 高群 逸枝は、 丹波国造「丹波氏」の祖変 を、以下のように説明した。 ①懿徳帝裔→開化帝裔. 彦湯産隅 ② 別祖 建豊波豆羅和気王. 建豊波豆羅和気 ③四道将軍丹波道主命の登場. 日子坐王ー丹波道主命④丹波道主命系から尾張氏系への祖変 国造本紀の記載に従い、丹波大懸主が「国造」に昇格した時代 、すなわち 成務天皇の時代には、タニハ族の上にはさらに新しい祖変が始まっていた。 かつての道主系の丹波氏こそ「タニハ国造」だが、 尾張氏からの系(婿) を迎え、尾張氏系の相続者を得て出自を尾張氏の祖「天火明命」に改めたとき、国造任命の時期を迎えたのではないか。
天平九年『但馬国正税帳』 丹後国少毅無位丹波直足島 延暦二年三月紀 丹後国丹波郡人正六位上丹波直真養などと見えるところによれば、尾張系国造の治所は、その昔の皇別丹波氏のをそのまま引き継いでいることが窺われる。 「丹後国一宮「籠神社」2019年4月29日(月)参拝 つまり、この問題を調べるには海部氏を知ればよいのではないか。海部氏といえば、丹後国一宮「籠神社」に伝わる『海部氏系図(籠神社祝部氏系図)』だが、海部氏とは Wikipedia では、
海人族を統括した伴造氏族で、全国に分布が見られ、籠神社社家はそれらのうち「海部直」姓を称して丹後に拠点を持った一族。 としている。 『海部氏系図』 Wikipedia『海部氏系図』とは、始祖「彦火明命」から第三十二世「田雄」まで、各世一名の直系子孫のみの記載:内容は以下の通り。 ・始祖から第十九世 「健振熊宿祢」 までの姓を有さない上代部。途中、二・三世と第五世から第十八世までを欠いているため、わずか三名(神)を記す。 ・第二十世 「都比」 から第二十四世「勲尼」までの、「海部直」の姓を持ち、伴造として丹波国(当時は丹後国を含んでいた)の海部(海人族集団)を率いていたと思われる海部管掌時代。 ・第二十五世「伍佰道」から貞観時代の第三十二世「田雄」までの、「海部直」の姓を持つとともに名前の下に「祝」字を付け、籠神社の祝としての奉仕年数を注記する祝部時代の記述。 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/amabe/PAGE001.HTM 『海部氏系図』 で注目ポイントは、 「建振熊宿禰」以前と次の「海部直都比」以後とで記載の形式が大きく変わっている。 「都比」以下はすべて「児…、児…」の形式になっているのに対し、「建振熊宿禰」以前は、「三世孫倭宿禰命」「孫建振熊宿禰」などとあって、あからさまに何代か省略されている。これは既に、いずれからも指摘されているように他の系図から援用されている。即ち 「都比」 以下は海部直氏の伝承に基づくものだろうと推測されるが、それ以前は、他氏(大和直氏、尾張氏)の伝承に基づいて記されたものと判断する。 この系図で 事実上の始祖 とされている 「都比」の父が 「建振熊宿禰」 となっていることに注目したい。しかもこの「建振熊宿禰」には独自の伝承が注記されている。
「此若狭木津高向宮爾海部直姓賜弖」 「楯桙賜國造仕奉 支 、品田天皇御宇」つまり、応神天皇御世に「海部直」を賜り、「国造」として仕えたことが記されている。この「海部氏系図」については、系図研究者の宝賀 寿男氏が「根拠のない異伝を所伝の独自性を示すかのように記載」と大批判のものなので、どこまで信じられるか疑わしいが、海部直氏は自氏の歴史上、応神天皇御世をエポックメイキングな時代と位置付けている。 だが、そこに和珥氏の祖先「建振熊宿禰」を持って来ることは、何を示すのだろうか。 建振熊宿禰 Wikipedia に依ると、
武振熊命 たけふるくまのみこと または和珥武振熊 わにのたけふるくま は、記紀に伝わる古墳時代の豪族・和珥氏の祖。『日本書紀』では「難波根子武振熊 なにわのねこたけふるくま 」や「武振熊」、『古事記』では「難波根子建振熊命」や「建振熊命」と表記される。 神功皇后摂政時における忍熊皇子の反乱の際、討伐に遣わされた人物。
とある。 つまり神功皇后・応神天皇方の将軍として忍熊皇子の乱を鎮圧した将軍である。そうすると、 海部直一族 は四世紀末の佐紀政権の内乱の際、和珥氏と共に反体制側、要するに応神天皇側に加担していただろうと思われる。 海部直一族の台頭によるタニハ旧勢力の衰退 但し、「籠神社」を奉斎する海部氏の台頭が応神の時代から始まるのか、はたまたそれ以前から絶大な権力を持っていた海部氏が四世紀末にヤマト政権の派閥抗争によって分裂し、応神方に加担した集団がその後の北タニハ政権の主導勢力となったのか、今後なお慎重に検討する必要がある。なぜなら史書には北タニハの政治史は何も記されていない。 いずれにせよ北タニハの政治集団が四世紀末にヤマト政権の関わりで内部に不和が生じ、その結果、首長層に変動が起こったことだけは確かだろうと思える。 「丹後古代の里資料館」パネル展示 2021年7月22日(木)撮影 北タニハの政治集団 前項では北タニハの「広域連合」、今回は北タニハの「政治集団」と表現したが、北タニハ(丹後半島)の大首長らは、王としてのアクションを何もせず、穏やかに暮らしていた訳ではない。倭国VS朝鮮半島勢力との軍事は大きな問題だったに違いない。 タニハ王の娘がヤマト政権の後后になった、五名もの自分の娘をヤマト政権に差し出したということは、ヤマト政権への奉仕だけでなく連合関係を担うための「質」だったのだろうと思う。タニハの政治集団は佐紀政権の一翼を担う有力な勢力だったろうと推測する。だが、タニハは佐紀政権の嫡流を真っ向から支援したために敗者側となり、史書から消された存在になってしまった。『記』『紀』に表れないのは、敗者側の歴史になってしまったからに違いない。 天然の良港としての潟湖のある北タニハ 北タニハが繁栄したのは、佐紀政権が朝鮮半島に渡るルートとして重視した天然の良港としての潟湖を持っていたからと考えている。したがって佐紀政権は、その成立当初から北タニハの政治集団と深い関わりがあり、両者は依存しあう形だったに違いない。 「丹後国一宮「籠神社」2019年4月29日(月)参拝 由緒でみる奉斎氏族の交代 丹後国一宮「籠神社」の由緒だが、そこには
とある。 時代的に合致はしないだろうが、この由緒は天照大神、豊受大神が遷座した後、彦火明命を祀ったとしている。天照大神はともかく、 もともと豊受大神を奉斎していたのは、北タニハの海人族(日下部氏≒丹波国造族) であって、後にやって来た(天神系)海部氏ではないように思う。 吉佐宮の起源がいつまで遡れるのか不明だが、北タニハの海人族が祀っていた 吉佐宮は、海部族によりその名称を変えられてしまう。それが雄略朝だと由緒は示している。
by 248jp | 2021-09-17 23:33 | 丹後王国 | Comments( 0 ) S M T W T F S 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31- このブログに掲載されている写真・画像・イラストを無断で使用することを禁じます。