早川長政(早川長敏)とは~真田幸村とも共に戦った戦国末期の大名
早川長政(早川長敏)とは~真田幸村とも共に戦った戦国末期の大名

早川長政(早川長敏)とは~真田幸村とも共に戦った戦国末期の大名

早川長政(はやかわ-ながまさ)は、早川幸憲の子として誕生しました。この早川家は、甲斐源氏・第5代の武田信光の子である早川信平(早川八郎信平)から続く家柄とされます。経緯は不明ですが、早川長政(早川長敏、早川主馬首)は豊臣秀吉の馬廻衆となり、...

[…] 1600年6月、関ヶ原の戦いの前となる頃、細川忠興は徳川家康の会津攻めに参加する為、細川家の軍勢を率いて関東に出向いたが、その際、細川幽斎は三男・細川幸隆と共に約500で田辺城(舞鶴城)を守備した。 7月に石田三成が挙兵すると、大阪の大名妻子を人質に取ろうとし、拒んだ細川ガラシャは屋敷に火を放ち自害。 田辺城には小野木重次(福知山城主)・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭、他にも家臣だけを派遣した武将としては岡城主・中川秀成、豊後・高田城主である竹中重利らの手勢も含まれる。 このように西軍15000人の大軍に包囲され田辺城の戦いとなったが、正室・沼田麝香も具足をつけて戦うなど、細川幽斎が指揮する籠城勢は粘り強く籠城戦を継続。 攻囲軍の中にすた細川幽斎の歌道の弟子である八条宮智仁親王は、7月と8月の2度にわたって降伏勧告の使者として赴いたが、細川幽斎は会わずに2カ月間の籠城を継けた。 しかし、細川幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王は、ついに兄・後陽成天皇に奏請し、細川幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城に送り、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日に勅命により講和となった。 古今伝授の奥義を収めた筥(はこ)を戦火に消失させないように宮中に送り、籠城戦を戦った話は名高い。 […]

[…] 1600年6月、関ヶ原の戦いの前となる頃、細川忠興は徳川家康の会津攻めに参加する為、細川家の軍勢を率いて関東に出向いたが、その際、細川幽斎は三男・細川幸隆と共に約500で田辺城(舞鶴城)を守備した。 7月に石田三成が挙兵すると、大阪の大名妻子を人質に取ろうとし、拒んだ細川ガラシャは屋敷に火を放ち自害。 田辺城には小野木重次(福知山城主)・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭、他にも家臣だけを派遣した武将としては岡城主・中川秀成、豊後・高田城主である竹中重利らの手勢も含まれる。 このように西軍15000人の大軍に包囲され田辺城の戦いとなったが、正室・沼田麝香も具足をつけて戦うなど、細川幽斎が指揮する籠城勢は粘り強く籠城戦を継続。 攻囲軍の中にすた細川幽斎の歌道の弟子である八条宮智仁親王は、7月と8月の2度にわたって降伏勧告の使者として赴いたが、細川幽斎は会わずに2カ月間の籠城を継けた。 しかし、細川幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王は、ついに兄・後陽成天皇に奏請し、細川幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城に送り、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日に勅命により講和となった。 古今伝授の奥義を収めた筥(はこ)を戦火に消失させないように宮中に送り、籠城戦を戦った話は名高い。 […]

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