対ソ干渉戦争|列強出兵とロシア革命
対ソ干渉戦争対ソ干渉戦争とは、1918年から1922年頃にかけて、ロシア革命後のロシアに対して英仏米日などの連合国が軍隊を派遣し、ボリシェヴィキ政権を打倒しようとして行った武力干渉である。第一次世界大戦の戦後処理とロシア内戦が重なり合う中で...
日本は対ソ干渉戦争において最大規模の兵力を投入した国であり、いわゆるシベリア出兵を行った。1918年、連合国はチェコ軍団救出と軍需物資保護を理由に共同出兵を決定し、日本もこれに参加したが、実際には極東ロシアにおける勢力拡大を意図していたとされる。日本軍は沿海州やシベリア内陸部に広く進出し、極東地域の政権とも接触しながら長期駐留を続けたため、ソヴィエト側との緊張は高まり、日本国内でも戦費負担や兵士の犠牲に対する批判が強まった。
国内政治と外交への影響 干渉戦争の終結とソヴィエト国家の成立1920年頃から連合国では干渉継続への批判が高まり、アメリカや欧州諸国は順次撤兵に踏み切った。白軍は次第に敗退し、ボリシェヴィキの赤軍が内戦に勝利したことで対ソ干渉戦争は収束へ向かった。1922年にはソ連共産党を支柱とする新国家としてロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国を含む連邦体制が構想され、同年末にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した。
国際関係と民族独立への波及対ソ干渉戦争とロシア内戦の過程で、旧ロシア帝国領内の周縁地域では民族運動が活発化した。とくに西方ではフィンランドの独立やバルト三国の独立、ポーランドの独立が進み、帝国支配の解体が現実のものとなった。これらの動きはヨーロッパの国際秩序を大きく変化させ、その後の国際政治に長期的な影響を及ぼした。
歴史的評価とソヴィエト側の記憶対ソ干渉戦争は、ソヴィエト側からみれば社会主義革命を外から圧殺しようとした侵略行為と位置づけられ、長く対外不信の記憶として残った。この経験は、ボリシェヴィキ独裁やプロレタリア独裁の正当化の一要因ともなり、国内の権力集中を推し進める論拠として利用された。また、干渉に参加した諸国にとっても、過大な戦費と成果の乏しさから「失敗した対外干渉」として批判的に総括されている。現在、対ソ干渉戦争は、第一次世界大戦後の混乱と革命への恐怖が生み出した典型的な介入戦争として、ロシア革命史やソヴィエト政権と戦時共産主義の研究において重要な位置を占めている。