水色文庫 - 朗読のためのフリーテキスト -
水色文庫 - 朗読のためのフリーテキスト - いま、父の前には、おまえの宿題の材料がならんでいる。 おまえの母が、つまりわたしの妻が、昨日、百貨店から買ってきたものだ。これらがはいっていたケースには、〈昆虫採集セット〉と書いてある。 おまえの母はいったものだ。 「ねえ、あなた。あの子ったら、夏休みの宿題を全然やってないのよ」 わたしは答えた。
いま、父の前には、おまえの宿題の材料がならんでいる。 おまえの母が、つまりわたしの妻が、昨日、百貨店から買ってきたものだ。これらがはいっていたケースには、〈昆虫採集セット〉と書いてある。 おまえの母はいったものだ。「ねえ、あなた。あの子ったら、夏休みの宿題を全然やってないのよ」 わたしは答えた。「夏休みといっても、あと何日もないじゃないか。どうしてほうっておいたんだ」 するとおまえの母親は非難がましく、あなたが宿題なんかほうっておけばいいっていったのよ、それを間に受けたのよあの子は、毎日毎日遊びまわってばかりいるんだから、あなたが悪いのよ、という。 おおいにけっこう、とわたしはこたえる。 そうとも。宿題なんかやらなくていい。見ろ。おかげで、どの子にも負けないくらいまっ黒に日焼けしてるじゃないか。 そうよ。おかげでまっ黒で汚い格好をして、ガキ大将気取りで走りまわっているわ。勉強嫌いになって。出かけたら出かけたで、まっ暗になるまで帰ってこないし。ちょっとやりたい放題がすぎるんじゃなくて? 子供はそれでいいんだ。元気なのが一番なんだ。 あなたは自分があの子の面倒を見ないから、そんな無責任でいられるのよ。結局、たまった宿題を手伝ってやらなければならないのは、このあたしなのよ。 宿題なんかなんだ。よし、わかった。わたしが責任を取ってやろうじゃないか。
ガラス瓶をさかさにする。 ひからびた虫たちが、新聞紙の上にころがり落ちてきた。 いつなんだ、この虫を集めたのは、とわたしは妻にたずねた。 妻は妻で、牛乳パックを利用して、なにやら工作をしているのだ。夏休みの工作とか昆虫採集といっても、親の宿題みたいなものだな、これでは。 知らない、と妻がこたえる。だいぶ前なんじゃない。ずいぶん遠くまで自転車で取りに行ったみたいよ。 わたしはピンセットで昆虫を転がしてみる。 脚をちぢめて乾ききったカナブン。羽のかけた蝶、蝉、トンボ。足のちぎれたバッタ。 あわれな犠牲者たち。おまえというハンターの獲物たち。〈昆虫採集セット〉には、虫ピンや採集ラベル、コルクを貼りつけた箱などがふくまれている。 わたしはカナブンのひとつをピンセットで押さえつけ、背中から虫ピンを突きさした。 目の前にかかげ、ひとわたり観察してから、おまえの昆虫図鑑を広げる。 そうか。カナブンというのはカブトムシの仲間なのか。コガネムシ科、カナブン。これだな。 わたしは採集ラベルにボールペンで書きつける。 採集ケースにラベルを貼りつけ、その上に虫ピンであわれなカナブンをとめた。 あわれなカナブン。 おまえはまだ帰ってきそうにない。 いいとも。好きなだけ遊んでこい。もうすぐ夏休みは終りだ。
ギンヤンマ。 4月から10月に平地の池で活動する、か。産卵は、連結したまま植物の組織内に行なう。 なるほど。そういえばつながったまま飛んでいるトンボを見たことがあるぞ。しかし、植物の組織内というのは、なんのことだろう。 おまえはこのあわれなトンボをどこで取ってきたのだろうか。池といえば、たぶんあの池のことだな。父も子供のころ、あの池でフナやウグイを釣ったものだ。いまでも釣れるのだろうか。 たぶん、無理だろう。池のすぐ横の崖の上に、大きな道路が通ってしまったからな。 しかし、こうやって見ると、昆虫図鑑というものもなかなかおもしろいものだ。スズムシの飼い方か。わたしも飼ったことがあるぞ。縁の欠けた大きな壷を母親からもらい、キュウリやナスで育てたものだ。ニボシなんかもやったな。タンパク質の補給だとかいって。 そういったことも、ここにちゃんと書いてある。なかなかいい本じゃないか。母に買ってもらったのか? その母がわたしにいう。 あなた、宿題は進んでいるの? なんだかぼんやり本ばかりながめて。 わたしはこたえる。 おまえこそ、どうなんだ? あたしのほうはもうすっかり終りですよ。 そうかい? で、なにを作ってやったんだ? 風車ですよ。ほら、あのオランダなんかによくあるじゃない。子供が作ったってことにしなきゃならないから、あまり上手にならないようにするのに苦労したわ。 よくいうよ、まったく。 わたしはふたたび、昆虫の分類に取りかかる。
外はそろそろ暗くなってきている。もうすぐおまえが帰ってくることだろう。まっ黒な顔と手足をして。 そうして、甘えた声でいうことだろう。 おかあさん、おなかすいた。 と。