教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう!~石川啄木『一握の砂』編~
学生のみなさんは、短歌を学校で学ぶ機会があると思います。この記事は教科書に載っている歌人の作品の魅力を知ってもらうために執筆しました。今回は「石川啄木」という歌人を取り上げます。この記事では、啄木の生涯と、歌集『一握の砂』を読んでいきます。
さて、小学生・中学生・高校生のみなさんは、日本の伝統文学である「短歌」を学校で学ぶ機会があると思います。何を隠そう、ぼくも中学校の国語の授業で短歌と出会いました。正確に言うと、ぼくは授業中に国語の便覧(あの分厚くて、重たい、資料集のようなやつです)を意味もなく片っ端から読んでいるような困った子どもだったので、その便覧を通じて日本を代表する多くの歌人の名前を覚えたのです。もちろん、新しい国語の教科書が届くと、まず真っ先に短歌や俳句、詩のページを読んでいました。
このように、ぼくにとってはその後の人生を決めてしまうくらい、大切な出会いであった「教科書の短歌」ですが、残念ながら多くの小中高生のみなさんは、あまり魅力的とは思わないのでないでしょうか。古めかしい言葉で書かれているし、作者の写真もまるで幕末の志士のようなものばかり。先生が「現代語」で説明する意味をノートに書きうつしていると、ものすごく遠い外国語の詩を勉強しているみたいに感じてしまう。自分もそうだったとはいえ、なんだかもったいないなあと感じます。
ということで、前置きが長くなりましたが、「国語の教科書に載っている歌人」の作品の魅力を、みなさんに知ってもらうためにこの記事を執筆しました。その中でも今回は「 石川啄木(いしかわたくぼく) 」という歌人を取り上げようと思います。名前は知っていると思いますが、石川啄木とはどんな人で、どんな短歌を詠んだのでしょうか。この記事では、啄木の代表作にして生前出版された唯一の歌集である『 一握の砂(いちあくのすな) 』(明治43年)を読んでいくのですが、その前に、その生涯を簡単に振り返ってみたいと思います。
啄木ってどんな人?
稀代の文学者であり、借金の天才はたらけど はたらけど 猶 なほ わが 生活 くらし 楽にならざり ぢつと手を見る
啄木は借金の天才であり、返す当てもないのについつい金を貸したくなるような、見捨てておけないところがあったのですね。ちなみに、赤裸々な啄木の「日記」や「手紙」は、それこそが日本近代文学の最高峰だという声も少なくありません。
明治35年(1902)、十七歳の啄木は、文学で身を立てるため単身上京し、雑誌「明星」を編集していた与謝野寛・晶子夫妻(そう、こちらも教科書でおなじみの「与謝野晶子」です)と知り合います。しかし、結局健康を害し、1年ほどで岩手へ連れ帰られてしまいました。生涯続く啄木の借金癖は、この最初の上京の時に始まったといわれています。
なお、啄木は19歳で堀合節子と婚約し、翌々年には長女・京子も生まれ家庭を持つことになります。若き啄木の結婚は、自分の筆で家族を養わなければならないというプレッシャーとの戦いの始まりでもありました。
文学への道をあきらめきれず、再び啄木が上京するのは明治41年(1908)のことです。この時点で啄木の生涯はあと4年ほども残されていません。東京では校正係として入社した朝日新聞社で働くかたわら、衰退した「明星」にかわって雑誌「スバル」を創刊したり、小説や詩論、短歌を次々に発表したりと、旺盛な文学活動が目立ちます。明治43年(1910)に『一握の砂』を刊行しましたが、これ以降啄木は結核に苦しみ、北海道から呼び寄せた妻・節子や母・カツも同じ病に侵されるなど、厳しい生活を送っていました。明治四十五年、啄木は父、妻と友人であった歌人・若山牧水に看取られ、27歳で永眠します。
啄木は短い人生の間に、多くの職を転々とし、また多くの友人たちに支えられながら、近代文学史に残る傑作をいくつも生み出してきました。啄木の短歌の魅力は、まさにその時代に啄木が生きた証として読むことができるところにあると、ぼくは思っています。啄木の歩いてきた厳しい道のりを知ることで、彼の短歌がよりいっそう輝いて見えるのです。
『一握の砂』について
『一握の砂』は啄木の死のおよそ2年前、明治43年に刊行された、彼の生前唯一の歌集です(死後、友人たちの尽力によって第二歌集『悲しき玩具』が発表されています)。
啄木の暮らした東京、北海道、そして盛岡、渋民での生活がやや感傷的に、そして克明に記録された、近代歌集の最高傑作のひとつです。そのほとんどの作品は、明治四十三年に東京で詠まれたもので、回想のかたちをとっているのが特徴です。
序文には、函館なる郁雨宮崎大四郎君/同国の友文学士花明金田一京助君/この集を両君に捧ぐ。>とあり、生涯啄木を支え続けた親友である、宮崎郁雨(いくう)と金田一京助への感謝の辞が記されています。
歌集は「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」の五部で構成され、このうち「秋風のこころよさに」だけは「明治四十一年秋の紀念なり」と記されていて、ほかの章は明治43年の歌作が中心です。収録されたすべての作品は、独特な「三行書き」 * で書かれていますが、これは啄木晩年の友であった土岐善麿(ときぜんまろ)の歌集『NAKIWARAI』の影響といわれています。
「我を愛する歌」初句の「 東海 」から「 小島 」「 磯 」「 白砂 」を経由して、「 われ 」と「 蟹 」へズームしていく、そのカメラワークが見事というほかありません。 「泣きぬれて~たはむる」という感傷的な結句には、青春の甘酸っぱさや、「我を愛する歌」と題されているように、自己に対する陶酔感が込められています。
<頬につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず> <いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ> <大という字を百あまり/砂に書き/死ぬことをやめて帰り来たれり> と、歌集の冒頭には大森浜を歌ったと思われる作品がいくつか並んでいます。「いのちなき~」の歌にあるような、ある対象への情愛を示す作品に、啄木らしさがよく表れています。
啄木の母・カツは彼を溺愛したといわれており、啄木もまた母を愛していました。妻の節子とカツはあまり馬が合わなかったようで、節子のほうが耐えかねて家出をしたこともありました。そんなとき、決まって啄木は母への愛と妻への愛の間で板挟みとなり、結果として妻の要求を満たすことができず、つらい思いをさせてしまっていたのです。
渡り鳥のように転職をくりかえした啄木ですが、どの職場でもそれなりにまじめに働いていたようで、いくら給料を前借りしても疎ましく思われるということはありませんでした。<こころよき疲れなるかな/息もつかず/仕事をしたる後のこの疲れ>という歌も有名ですが、労働は啄木にとって数少ない喜びのひとつだったのかもしれません。新聞社の校正の職に就いていたときには、小説家・ 二葉亭四迷 の全集の校正を任されるなど、大きな仕事にも携わっていたようで、校正者としての啄木の有能さが計り知れます。
一方で、「我を愛する歌」に限らず、このころの啄木の歌には「死」を希求するような暗い影も付きまといます。<どんよりと/くもれる空を見てゐしに/人を殺したくなりにけるかな>といった不穏な歌や、<死にたくてならぬ時あり/はばかりに人目を避けて/怖き顔する>と、もっと直接的に死に寄っていく歌もあります。体調も一進一退で、精神的にも不安定な時期なのでしょう。労働には不安定な啄木をギリギリ正常につなぎ留めておく、そういった意味もあったのかもしれません。
「煙」年齢が読み込まれた歌では、不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心>も有名です。
盛岡の中学校の 露台 バルコン の 欄干 てすり に 最一度 もいちど 我を倚らしめ
よく知られた<かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川>や、<ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな>のような作品は、あまりにも素直すぎるというか、短歌としてシンプルすぎるというか、一見すると歌として優れたものではないようにも思えます。しかし、ひとたび啄木の人生を知ると、むしろこんな形でしか故郷である渋民村を歌うことができなかった啄木の、深い悲しみが表現されていることに気づかされるのです。
「秋風のこころよさに」さらさらと雨落ち 来 きた り 庭の 面 も の濡れゆくを見て 涙わすれぬ
「忘れがたき人人」大川 おおかは の水の 面 おもて を見るごとに 郁雨よ 君のなやみを思ふ
宮崎郁雨は啄木の人生を語るうえで、欠かすことのできない人物です。函館で啄木と出会った郁雨は、啄木のもっともよき理解者であり、裕福であったために金銭的にも頼りにされていました(おそらく啄木にもっとも多くの金を貸した人物でしょう)。
<演習のひまにわざわざ/汽車に乗りて/訪(と)い来(き)し友とのめる酒かな> <智慧とその深き慈悲とを/もちあぐみ/為すこともなく友は遊べり>、 函館で啄木は郁雨やその仲間たちとよく集まり、酒を飲んでは文学や恋愛について語り合いました。それはさながら気の合う仲間たちと目標を同じくして切磋琢磨する、サークルのようなものだったのかもしれません。せいぜい大学生の年齢であったこのころの啄木にとって、郁雨との出会いはどれほど大きかったことか。
「 さりげなく 」のリフレインから、「 それだけのこと 」とやわらかに着地するこの作品では、智恵子へのひそかな思慕が詩的に表現されています。「ぼくがさりげなく言う言葉を、きみもさりげなく聴いてくれる」なんて、ナルシストっぽいところはありますが、青春のあわさに満ちていて、ちょっとかわいらしいですね。
<馬鈴薯(ばれいしょ)の花咲く頃と/なれりけり/君もこの花を好きたまふらむ> <わかれ来て年を重ねて/年ごとに恋しくなれる/君にしあるかな>など、歌としては優れたものではないかもしれませんが、啄木の素直さが垣間見えて好感の持てる作品です。
「手套を脱ぐ時」常に借金まみれだった啄木ですが、本だけはよく読み、そして読んでは売ってということをくりかえしていました。ツルゲーネフ、オスカー・ワイルドなどを愛読したといわれていますが、啄木がもっとも愛した文学者はワーグナーでした。
かなしくも 夜明くるまでは残りゐぬ 息きれし児の肌のぬくもり
『一握の砂』の最後に収められている作品です。「 息きれし児 」とは、明治四十三年の十月に生まれた啄木の長男・真一のことを指しています。啄木が歌集出版の契約をした直後、真一はわずか三週間という短い命を終えました。悲しみに暮れた啄木は、歌集の最後に最愛のわが子への思いを込める一連を収めたのです。
<夜おそく/つとめ先よりかへり来て/今死にしてふ児を抱けるかな> <真白なる大根の根の肥ゆるころ/うまれて/やがて死にし児もあり>という歌も印象的です。
まとめ 『一握の砂』をどう読むか
啄木の短歌を読むときのポイントそれは、本稿でも何度も記しているように、この歌集が「明治43年のある時期に集中して詠まれた作品」を中心に構成されているということです。言い換えれば、啄木が盛岡を歌うとき、渋民村を歌うとき、函館を歌うとき、そしてそうした地で出会った友人たちを歌うとき、それらはみな回想のかたちであらわれているということなのです。
また、『一握の砂』は啄木の生活の記録であり、明治末期の文学青年の残した「近代」という時代の記録でもあります。手紙や日記が文学作品として評価されているということは、それだけ啄木が当時の日本社会を詳細に観察し、克明に記録したということにほかなりません。 つまり、啄木の文学を読むカギは、啄木の人生、もっと言えば啄木の生きた時代を知るということにあるのです。
もっと知りたい人へ(参考文献一覧)『石川啄木論』中村稔(青土社、2017)
おわりに
「読んでよかった!」と思ってもらえるかどうかはわかりませんが、少なくてもぼくは「書いてよかった!」と思っています(笑)
ところで、ぼくが初めて『一握の砂』を読んだのは高校三年生のときでした。盛岡市で行われる「 短歌甲子園 」に出場するために、日々短歌の練習(?)に明け暮れていた時期です。そう、じつはこの「短歌甲子園」、啄木の名を冠して全国から高校生歌人を集める大会であり、毎年8月、盛岡市を舞台に熱戦がくりひろげられているのです!
啄木の大会なんだから啄木を読まなきゃ! と、単純なぼくは『一握の砂』を図書館で借りて読み、そして「ピンとこないなあ」と思いながら返してしまったのでした(笑)。 まあ、あまりまじめな読者ではなかったのですね。もうちょっと勉強してから出場すればよかったなあと、悔やんでも悔やみきれません。
ちなみに、「短歌甲子園」はほぼ同時期に宮崎県でも行われます。そちらの大会はなんと「牧水・短歌甲子園」と題されています。あれ、どこかでこの名前を見た気が……そう、啄木臨終の際にその場にいたといわれる、若山牧水のことなのです!
この記事を書いた人 貝澤駿一 自選短歌まっさらなノート ピリオド そこにいるすべての走り出さないメロス
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