高麗の滅亡と朝鮮の建国
高麗の滅亡から朝鮮を建国するまでの歴史を説明する
(朝鮮3代目の王、1367~1422)太祖李成桂が朝鮮を建国するにあたって、反対派を除去するのに大活躍した人物で、李成桂の1番目の婦人の5男。 太祖李成桂には1番目の婦人から6男2女がいて、2番目の婦人からは2男1女がいた。李芳遠は一番目の婦人から生まれた5男だったが、父を手伝い朝鮮を建国するのに活躍をした。しかし、父の李成桂と鄭道傳を始めとするグループは、2番目の婦人から生まれた腹違いの年下の弟を皇太子に立てようとする、これに李芳遠が憤慨し乱を起こしたのが1次王子の乱である。ここで鄭道傳と2番目の婦人から生まれた弟を殺し、一番目の婦人から生まれた2男(正宗)を王に建てる(1男は建国後病死)。 一次王子の乱で活躍した李芳遠の兄(4男)は王座に欲があり、同じく一次王子の乱で貢献した朴苞と言う人が待遇に不満を持っていた。この二人が意気投合し5男の李芳遠と対立したのが2次王子の乱である。ここで李芳遠が勝ち、4男は流され、朴苞は殺される。これによって2男の正宗は5男李芳遠を皇太子に建て、同じ年に李芳遠が朝鮮3代目の王になる。※3男は権力に欲がなかったと言う。※朝鮮建国初期には、王子もそれぞれの兵を持つことができたから王子の乱を起こすことができた。
世宗大王(朝鮮4代目の王、1397.4.10~1450.2.17) 太宗李芳遠は1番目の婦人から4人の男をもうけたが、世宗はこの中で3男だった。もともとは長男(讓零大君)を皇太子にしたが厳しい儒教の規律や宮廷生活に合わず廃位される。世宗が皇太子に立てられてからは風流を楽しみ、書道にも優れていて崇禮門(南大門)の額を書いたと言われている。 太宗李芳遠の2男(孝零大君)は、篤実な仏教信者で、彼の墓がソウル地下鉄2号線の駅(方背駅)近くにある。 3男の世宗大王は22歳に王になった。ハングルを作り出した。偉大な業績をたくさん残したため大王の文字がいつも付いている。王座を狙って実の兄弟との殺し合いをした父からこのような偉大な人物が生まれたのは興味深いことで、恐るべし太宗李芳遠があってこそ世宗大王のような人物がうまく政治をすることができたとも言われている。