宮古路豊後掾 (読み)ミヤコジブンゴノジョウ
デジタル大辞泉 - 宮古路豊後掾の用語解説 - [1660?~1740]江戸中期の浄瑠璃太夫。豊後節の始祖。京都の人。初世都太夫一中に学び、都国太夫半中と称したが、のち独立して宮古路と改め、一流をなした。江戸に出て豊後掾を受領、哀婉な語り口で人気を博したが、晩年、幕府の弾圧を受けた。
浄瑠璃の太夫。生没年不詳。初世都太夫一中の門人で,はじめ都国太夫半中と称した。享保(1716-36)初年ごろにはすでに〈半中節〉の名は高く,一中節に《小春髪結の段》《根曳の門松》《道行三度笠》などを残している。1722年(享保7)春ごろ一中節から独立,宮古路国太夫半中と改め,宮古路節,国太夫節の名を高めた。やがて31年には宮古路豊後と名のり,江戸へ下り,ついで名古屋に滞在,そのとき実際の心中事件をモデルにした《睦月連理𢢫(むつまじきれんりのたまつばき)》を作り,これを持って34年ふたたび江戸へ下り,大好評を博した。同年暮れに豊後掾を受領して橘盛村と名のった。そのころから彼の髪型(文金風)や長羽織までが熱狂的に喜ばれた。36年(元文1)から豊後節の宅稽古禁止令が出ていたが,江戸に心中や家出が流行した責任をも押しつけられ,39年9月に劇場での上演も法度になった(実はすべて豊後掾個人に対する弾圧としか考えられない点が多い)。豊後掾はその前に京都へ帰っていたが,掾号を返上,40年9月1日没と伝える。享年81歳ともいい,38歳情死説もある。豊後掾の語り口がいかなるものであったかよくわからないが,〈河東裃外記袴,半太羽織に義太股引,豊後可愛いや丸裸〉という落首から想像されるように,気取りや飾りを取り去った,とくに強く訴える力を持っていたらしい。語り物を読む限りでは,風俗紊乱や心中謳歌は認められない。彼はむしろ,多くの弟子を育て,のちに豊後系浄瑠璃の祖となった点に大きな足跡を残した。→豊後節執筆者: 竹内 道敬
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮古路豊後掾」の意味・わかりやすい解説
宮古路豊後掾みやこじぶんごのじょう(?―1740)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮古路豊後掾」の意味・わかりやすい解説
宮古路豊後掾みやこじぶんごのじょう[生]?[没]元文5(1740).京都江戸時代中期の豊後節の始祖。浄瑠璃の太夫。京都の1世都太夫一中の門弟。都国太夫半中と名のった。享保初年頃半中節の名で知られていたが,その後独立。宮古路国太夫を経て,享保 17 (1732) 年豊後掾を受領。同 17年京坂の門弟繁太夫 (繁太夫節の始祖) や薗八 (宮薗節の始祖) を残して名古屋に行き,19年には江戸に下った。豊後掾は世話浄瑠璃,特に心中道行物を得意とし,従来硬派の浄瑠璃が主であった江戸では,豊後掾の柔らかく熱情的な語り口が大きな人気を博し,豊後掾の髪型などが流行するほどであった。しかしそのため他派の人々にねたまれ,また江戸幕府からも弾圧を受ける結果となった。元文2 (1737) 年門弟を江戸に残して京都に戻り,掾号も返上して宮古路豊後となった。以後,京坂の芝居に出演していたが,まもなく病没。江戸残留の門人加賀太夫 (新内節の遠祖) や文字太夫 (常磐津節の始祖) たちは改姓して独立した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宮古路豊後掾」の解説
宮古路豊後掾 みやこじ-ぶんごのじょう世界大百科事典(旧版) 内の 宮古路豊後掾 の言及
【一中節】より…また一中節3派の特色をいえば,都は派手で,菅野は素朴,宇治は“はんなり”とした味がある。 初世都一中の弟子に都半中があり,1722年(享保7)ごろ独立して宮古路国太夫半中と改め,さらに豊後掾( 宮古路豊後掾 )となった。その門から常磐津節,富本節,清元節,新内節,宮薗節などが生まれたので,それら豊後系浄瑠璃の祖の位置にある。…
【歌舞伎】より 【髪形】より 【浄瑠璃】より…肥前節,半太夫節,河東節を 江戸節 と総称する。 また京の 都太夫一中 の弟子 宮古路豊後掾 の曲節は江戸で 豊後節 として流行したが,風紀を乱すとして1731年(享保16)と36年(元文1)に自宅の稽古を禁止され,39年には一部劇場以外厳禁された。その後,門弟宮古路文字太夫が 常磐津節 を広め,富本豊前掾が 富本 節を語ったが,同系の 清元延寿太夫 も1814年(文化11)に 清元節 の流派を立てた。…
【常磐津文字太夫】より…俗称駿河屋文右衛門。位牌商であったが,1716‐26年(享保1‐11)ごろ宮古路国太夫(のちの 宮古路豊後掾 )の門弟(のちに養子)となり,宮古路文字太夫(一説に前名を右膳とする)と名のる。豊後掾は32年から34年正月ごろまで名古屋滞在ののち江戸に下る。…
【都の錦】より…ともに1865年(慶応1)柳糸亭三楽編著刊。《都の錦》(角書〈音曲道しるべ〉)は 宮古路豊後掾 の秘伝を初世 常磐津文字太夫 が書きとめ,写本として伝わっていたもので,浄瑠璃の語り方についての指導に重点がおかれている。《老の戯言》(角書〈三味線早稽古〉)は常磐津節の旋律型について具体的に説明したものであり,このほうが資料的価値が高い。…
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