日和下駄(一名 東京散策記)
日和下駄(一名 東京散策記)

日和下駄(一名 東京散策記)

「日和下駄」は、永井荷風による東京散策記です。日和下駄と蝙蝠傘を携え、東京の街を歩く著者は、近代化が進む都市の風景の中に、往時の江戸の面影を探し求めます。変わりゆく街並みを、過去の地図と照らし合わせながら、消えゆく伝統や文化、そして人々の暮らしへの感慨を、独特の視点で綴ります。寺院や神社、街路樹、そして水路など、様々な風景を通して、東京という都市の過去と現在、そして未来に対する著者の想いが、静かに、そして時に痛切に語られます。

東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度 米刃堂 ( へいじんどう ) 主人のもとめにより 改竄 ( かいざん ) して一巻とはなせしなり。ここにかく起稿の年月を 明 ( あきらか ) にしたるはこの書 板 ( はん ) 成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところ 尠 ( すくな ) からざらん事を思へばなり。見ずや木造の 今戸橋 ( いまどばし ) は 蚤 ( はや ) くも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び 露草 ( つゆくさ ) の花を見ず。 桜田御門外 ( さくらだごもんそと ) また芝赤羽橋 向 ( むこう ) の 閑地 ( あきち ) には土木の工事今まさに 興 ( おこ ) らんとするにあらずや。昨日の 淵 ( ふち ) 今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、 拙 ( つたな ) きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。 乙卯 ( いつぼう ) の年晩秋

第一 日和下駄

人並はずれて 丈 ( せい ) が高い上にわたしはいつも 日和下駄 ( ひよりげた ) をはき 蝙蝠傘 ( こうもりがさ ) を持って歩く。いかに 好 ( よ ) く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中 湿気 ( しっけ ) の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお 上 ( かみ ) の 御政事 ( おせいじ ) とばかり 極 ( きま ) ったものではない。春の花見頃 午前 ( ひるまえ ) の晴天は 午後 ( ひるすぎ ) の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。 梅雨 ( つゆ ) の 中 ( うち ) は申すに及ばず。 土用 ( どよう ) に 入 ( い ) ればいついかなる時 驟雨 ( しゅうう ) 沛然 ( はいぜん ) として 来 ( きた ) らぬとも 計 ( はか ) りがたい。 尤 ( もっと ) もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が 割 ( わり ) なき 契 ( ちぎり ) を結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ 幌 ( ほろ ) の 中 ( うち ) 、しっぽり 何処 ( どこ ) ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。 閑話休題 ( それはさておき ) 日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を 捏返 ( こねかえ ) す 霜解 ( しもどけ ) も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の 大通 ( おおどおり ) 、やたらに 溝 ( どぶ ) の水を 撒 ( ま ) きちらす 泥濘 ( ぬかるみ ) とて一向驚くには及ぶまい。 私 ( わたし ) はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。 市中 ( しちゅう ) の散歩は子供の時から好きであった。十三、四の頃私の 家 ( うち ) は一時 小石川 ( こいしかわ ) から 麹町永田町 ( こうじまちながたちょう ) の官舎へ 引移 ( ひきうつ ) った事があった。 勿論 ( もちろん ) 電車のない時分である。私は 神田錦町 ( かんだにしきちょう ) の私立英語学校へ 通 ( かよ ) っていたので、 半蔵御門 ( はんぞうごもん ) を 這入 ( はい ) って 吹上御苑 ( ふきあげぎょえん ) の裏手なる 老松 ( ろうしょう ) 鬱々たる 代官町 ( だいかんちょう ) の 通 ( とおり ) をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら 竹橋 ( たけばし ) を渡って 平川口 ( ひらかわぐち ) の 御城門 ( ごじょうもん ) を向うに昔の 御搗屋 ( おつきや ) 今の文部省に沿うて 一 ( ひと ) ツ 橋 ( ばし ) へ出る。この 道程 ( みちのり ) もさほど遠いとも思わず初めの 中 ( うち ) は物珍しいのでかえって楽しかった。 宮内省 ( くないしょう ) 裏門の 筋向 ( すじむこう ) なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな 榎 ( えのき ) があった。その頃その 木蔭 ( こかげ ) なる土手下の 路傍 ( みちばた ) に井戸があって夏冬ともに 甘酒 ( あまざけ ) 大福餅 ( だいふくもち ) 稲荷鮓 ( いなりずし ) 飴湯 ( あめゆ ) なんぞ売るものがめいめい荷を 卸 ( おろ ) して 往来 ( ゆきき ) の人の休むのを待っていた。 車力 ( しゃりき ) や 馬方 ( うまかた ) が多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。これは竹橋の方から這入って来ると 御城内 ( ごじょうない ) 代官町の通は歩くものにはそれほどに気がつかないが車を 曳 ( ひ ) くものには限りも知れぬ長い坂になっていて、丁度この 辺 ( へん ) がその中途に当っているからである。東京の地勢はかくの如く 漸次 ( ぜんじ ) に麹町 四谷 ( よつや ) の方へと高くなっているのである。夏の炎天には私も学校の 帰途 ( かえりみち ) 井戸の水で車力や馬方と共に 手拭 ( てぬぐい ) を絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。土手にはその時分から既に「昇ルベカラズ」の 立札 ( たてふだ ) が 付物 ( つきもの ) になっていたが構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える。かくの如き眺望は 敢 ( あえ ) てここのみならず、 外濠 ( そとぼり ) の 松蔭 ( まつかげ ) から 牛込 ( うしごめ ) 小石川の高台を望むと同じく先ず東京 中 ( ちゅう ) での絶景であろう。 私は錦町からの帰途 桜田御門 ( さくらだごもん ) の方へ廻ったり 九段 ( くだん ) の方へ出たりいろいろ遠廻りをして目新しい町を通って見るのが面白くてならなかった。しかし一年ばかりの 後 ( のち ) 途中の光景にも少し 飽 ( あ ) きて来た頃私の家は再び小石川の旧宅に 立戻 ( たちもど ) る事になった。その夏始めて 両国 ( りょうごく ) の 水練場 ( すいれんば ) へ通いだしたので、今度は繁華の 下町 ( したまち ) と 大川筋 ( おおかわすじ ) との光景に 一方 ( ひとかた ) ならぬ 興 ( きょう ) を催すこととなった。 今日 ( こんにち ) 東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を 辿 ( たど ) るに外ならない。これに加うるに 日々 ( にちにち ) 昔ながらの名所古蹟を 破却 ( はきゃく ) して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を 味 ( あじわ ) おうとしたら 埃及 ( エジプト ) 伊太利 ( イタリー ) に 赴 ( おもむ ) かずとも現在の東京を歩むほど無残にも 傷 ( いた ) ましい 思 ( おもい ) をさせる処はあるまい。 今日 ( きょう ) 看 ( み ) て過ぎた寺の門、 昨日 ( きのう ) 休んだ 路傍 ( ろぼう ) の大樹もこの次再び来る時には 必 ( かならず ) 貸家か 製造場 ( せいぞうば ) になっているに違いないと思えば、それほど 由緒 ( ゆかり ) のない建築もまたはそれほど 年経 ( としへ ) ぬ樹木とても何とはなく 奥床 ( おくゆか ) しくまた悲しく 打仰 ( うちあお ) がれるのである。 一体江戸名所には昔からそれほど誇るに足るべき風景も建築もある訳ではない。既に 宝晋斎其角 ( ほうしんさいきかく ) が『 類柑子 ( るいこうじ ) 』にも「隅田川絶えず名に流れたれど 加茂 ( かも ) 桂 ( かつら ) よりは 賤 ( いや ) しくして 肩落 ( かたおち ) したり。 山並 ( やまなみ ) もあらばと願はし。 目黒 ( めぐろ ) は物ふり 山坂 ( やまさか ) おもしろけれど果てしなくて水遠し、 嵯峨 ( さが ) に似てさみしからぬ 風情 ( ふぜい ) なり。 王子 ( おうじ ) は 宇治 ( うじ ) の 柴舟 ( しばぶね ) のしばし目を流すべき 島山 ( しまやま ) もなく 護国寺 ( ごこくじ ) は 吉野 ( よしの ) に似て 一目 ( ひとめ ) 千本の雪の 曙 ( あけぼの ) 思ひやらるゝにや 爰 ( ここ ) も 流 ( ながれ ) なくて 口惜 ( くちお ) し。 住吉 ( すみよし ) を 移奉 ( うつしまつ ) る 佃島 ( つくだじま ) も岸の姫松の 少 ( すくな ) きに 反橋 ( そりばし ) のたゆみをかしからず 宰府 ( さいふ ) は 崇 ( あが ) め 奉 ( たてまつ ) る名のみにして 染川 ( そめかわ ) の色に 合羽 ( かっぱ ) ほしわたし 思河 ( おもいかわ ) のよるべに 芥 ( あくた ) を 埋 ( うず ) む。 都府楼観音寺唐絵 ( とふろうかんのんじからえ ) と云はんに四ツ目の鐘の 裸 ( はだか ) なる、 報恩寺 ( ほうおんじ ) の 甍 ( いらか ) [#「甍」は底本では「薨」] の 白地 ( しらじ ) なるぞ 屏風 ( びょうぶ ) 立てしやうなり。 木立 ( こだち ) 薄く 梅紅葉 ( うめもみじ ) せず、三月の末藤にすがりて回廊に 筵 ( むしろ ) を設くるばかり野には心もとまらず…… 云々 ( うんぬん ) 。」そして其角は江戸名所の 中 ( うち ) 唯ひとつ 無疵 ( むきず ) の名作は快晴の富士ばかりだとなした。これ恐らくは江戸の風景に対する最も公平なる批評であろう。江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それにもかかわらずこの都会の風景はこの都会に生れたるものに対して必ず特別の興趣を催させた。それは昔から江戸名所に関する案内記狂歌集絵本の 類 ( たぐい ) の 夥 ( おびただ ) しく 出板 ( しゅっぱん ) されたのを見ても容易に推量する事が出来る。太平の世の武士町人は 物見遊山 ( ものみゆさん ) を好んだ。花を愛し、風景を眺め、古蹟を 訪 ( と ) う事は即ち風流な最も上品な 嗜 ( たしな ) みとして尊ばれていたので、実際にはそれほどの興味を持たないものも、時にはこれを 衒 ( てら ) ったに相違ない。江戸の人が最も盛に江戸名所を尋ね歩いたのは私の見る処やはり狂歌全盛の 天明 ( てんめい ) 以後であったらしい。江戸名所に興味を持つには是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば 戯作者気質 ( げさくしゃかたぎ ) でなければならぬ。 この 頃 ( ごろ ) 私が日和下駄をカラカラ 鳴 ( なら ) して再び 市中 ( しちゅう ) の散歩を試み初めたのは無論江戸軽文学の感化である事を 拒 ( こば ) まない。しかし私の趣味の 中 ( うち ) には 自 ( おのずか ) らまた近世ヂレッタンチズムの影響も 混 ( まじ ) っていよう。千九百五年 巴里 ( パリー ) のアンドレエ・アレエという一新聞記者が社会百般の現象をば芝居でも見る気になってこれを見物して歩いた記事と、また仏国各州の都市古蹟を 歩廻 ( あるきまわ ) った印象記とを合せて En ( アン ) Flanant ( フラアナン ) と題するものを 公 ( おおやけ ) にした。その時アンリイ・ボルドオという批評家がこれを機会としてヂレッタンチズムの何たるかを解剖批判した事があった。 茲 ( ここ ) にそれを紹介する必要はない。私は 唯 ( ただ ) 西洋にも市内の散歩を試み、近世的世相と並んで過去の遺物に興味を持った同じような傾向の人がいた事を 断 ( ことわ ) って置けばよいのである。アレエは西洋人の 事故 ( ことゆえ ) その態度は無論私ほど社会に対して無関心でもなくまた 肥遯的 ( ひとんてき ) でもない。これはその本国の事情が異っているからであろう。彼は別に為すべき仕事がないからやむをえず散歩したのではない。 自 ( みずか ) ら進んで観察しようと 企 ( くわだ ) てたのだ。しかるに私は別にこれといってなすべき義務も責任も何にもないいわば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に 呑気 ( のんき ) にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。 仏蘭西 ( フランス ) の小説を読むと 零落 ( おちぶ ) れた貴族の 家 ( いえ ) に生れたものが、 僅少 ( わずか ) の遺産に自分の身だけはどうやらこうやら日常の衣食には事欠かぬ代り、浮世の 楽 ( たのしみ ) を 余所 ( よそ ) に 人交 ( ひとまじわ ) りもできず、一生涯を 果敢 ( はか ) なく淋しく無為無能に送るさまを描いたものが沢山ある。こういう人たちは何か世間に名をなすような専門の研究をして見たいにもそれだけの資力がなし職業を求めて働きたいにも働く口がない。せん方なく 素人画 ( しろうとえ ) をかいたり釣をしたり墓地を歩いたりしてなりたけ金のいらないようなその日の 送方 ( おくりかた ) を考えている。私の境遇はそれとは全く違う。しかしその行為とその感慨とはやや同じであろう。 日本 ( にほん ) の現在は文化の爛熟してしまった西洋大陸の社会とはちがって資本の 有無 ( うむ ) にかかわらず自分さえやる気になれば為すべき事業は沢山ある。男女 烏合 ( うごう ) の 徒 ( と ) を集めて芝居をしてさえもし芸術のためというような名前を付けさえすればそれ相応に 看客 ( かんきゃく ) が来る。田舎の中学生の虚栄心を 誘出 ( さそいだ ) して投書を 募 ( つの ) れば文学雑誌の経営もまた容易である。慈善と教育との美名の 下 ( もと ) に弱い家業の芸人をおどしつけて安く出演させ、切符の押売りで興行をすれば 濡手 ( ぬれて ) で 粟 ( あわ ) の 大儲 ( おおもうけ ) も出来る。富豪の人身攻撃から段々に 強面 ( こわもて ) の名前を売り出し 懐中 ( ふところ ) の暖くなった 汐時 ( しおどき ) を 見計 ( みはから ) って妙に紳士らしく上品に構えれば、やがて国会議員にもなれる世の中。現在の日本ほど為すべき事の多くしてしかも容易な国は恐らくあるまい。しかしそういう風な世渡りを 潔 ( いさぎよ ) しとしないものは 宜 ( よろ ) しく自ら譲って 退 ( しりぞ ) くより 外 ( ほか ) はない。市中の電車に乗って 行先 ( ゆくさき ) を急ごうというには 乗換場 ( のりかえば ) を 過 ( すぎ ) る 度 ( たび ) ごとに 見得 ( みえ ) も 体裁 ( ていさい ) もかまわず人を突き 退 ( の ) け 我武者羅 ( がむしゃら ) に飛乗る 蛮勇 ( ばんゆう ) がなくてはならぬ。自らその蛮勇なしと 省 ( かえり ) みたならば 徒 ( いたずら ) に 空 ( す ) いた電車を待つよりも、 泥亀 ( どろがめ ) の歩み 遅々 ( ちち ) たれども、自動車の通らない 横町 ( よこちょう ) あるいは市区改正の破壊を 免 ( まぬか ) れた旧道をてくてくと歩くに 如 ( し ) くはない。市中の道を行くには 必 ( かならず ) しも市設の電車に乗らねばならぬと 極 ( きま ) ったものではない。いささかの遅延を忍べばまだまだ悠々として 濶歩 ( かっぽ ) すべき道はいくらもある。それと同じように現代の生活は 亜米利加風 ( アメリカふう ) の努力主義を以てせざれば食えないと極ったものでもない。 髯 ( ひげ ) を 生 ( はや ) し洋服を着てコケを 脅 ( おど ) そうという田舎紳士風の野心さえ起さなければ、よしや身に一銭の 蓄 ( たくわえ ) なく、友人と称する共謀者、先輩もしくは親分と称する 阿諛 ( あゆ ) の目的物なぞ一切 皆無 ( かいむ ) たりとも、なお 優游 ( ゆうゆう ) 自適の生活を 営 ( いとな ) む方法は 尠 ( すくな ) くはあるまい。同じ露店の大道商人となるとも自分は髭を生し洋服を着て演舌口調に医学の説明でいかさまの薬を売ろうよりむしろ黙して裏町の 縁日 ( えんにち ) にボッタラ 焼 ( やき ) をやくか 粉細工 ( しんこざいく ) でもこねるであろう。苦学生に扮装したこの頃の行商人が 横風 ( おうふう ) に靴音高くがらりと人の 家 ( うち ) の 格子戸 ( こうしど ) を明け 田舎訛 ( いなかかま ) りの 高声 ( たかごえ ) に奥様はおいでかなぞと、ややともすれば 強請 ( ゆすり ) がましい 凄味 ( すごみ ) な態度を示すに引き比べて昔ながらの 脚半 ( きゃはん ) 草鞋 ( わらじ ) に 菅笠 ( すげがさ ) をかぶり 孫太郎虫 ( まごたろうむし ) や 水蝋 ( いぼた ) の 虫 ( むし ) 箱根山 ( はこねやま ) 山椒 ( さんしょ ) の 魚 ( うお ) 、または 越中富山 ( えっちゅうとやま ) の 千金丹 ( せんきんたん ) と呼ぶ声。秋の 夕 ( ゆうべ ) や冬の 朝 ( あした ) なぞこの声を聞けば 何 ( なに ) とも知れず悲しく淋しい気がするではないか。 されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美してその審美的価値を論じようというのでもなく、さればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を 探 ( さぐ ) りこれが保存を主張しようという訳でもない。 如何 ( いかん ) となれば現代人の古美術保存という奴がそもそも古美術の風趣を害する原因で、古社寺の周囲に鉄の鎖を張りペンキ 塗 ( ぬり ) の 立札 ( たてふだ ) に例の何々スベカラズをやる位ならまだしも結構。古社寺保存を名とする修繕の請負工事などと来ては、これ全く破壊の暴挙に類する事は改めてここに実例を挙げるまでもない。それ故私は唯目的なくぶらぶら歩いて 好勝手 ( すきかって ) なことを書いていればよいのだ。 家 ( うち ) にいて 女房 ( にょうぼ ) のヒステリイ 面 ( づら ) に浮世をはかなみ、あるいは新聞雑誌の訪問記者に襲われて折角掃除した 火鉢 ( ひばち ) を 敷島 ( しきしま ) の吸殻だらけにされるより、暇があったら歩くにしくはない。歩け歩けと思って、私はてくてくぶらぶらのそのそといろいろに歩き廻るのである。 元来がかくの如く目的のない私の散歩にもし幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく 蝙蝠傘 ( こうもりがさ ) に 日和下駄 ( ひよりげた ) を 曳摺 ( ひきず ) って行く 中 ( うち ) 、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の 横町 ( よこちょう ) の 木立 ( こだち ) を仰ぎ、 溝 ( どぶ ) や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して 少時 ( しばし ) 我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである。 同じ荒廃した光景でも名高い宮殿や 城郭 ( じょうかく ) ならば 三体詩 ( さんたいし ) なぞで人も知っているように、「太掖勾陳処処 ニ 疑 フ 。薄暮 ノ 毀垣春雨 ノ 裏。〔 太掖 ( たいえき ) か 勾陳 ( こうちん ) か 処処 ( しょしょ ) に 疑 ( うたが ) う。 薄暮 ( はくぼ ) の 毀垣 ( きえん ) 春雨 ( しゅんう ) の 裏 ( うち ) 。〕」あるいはまた、「煬帝 ノ 春游古城在。壊宮芳草満 ツ 二人家 ニ 一。〔 煬帝 ( ようだい ) の 春游 ( しゅんゆう ) せる 古城 ( こじょう ) 在 ( あ ) り。 壊宮 ( かいきゅう ) の 芳草 ( ほうそう ) 人家 ( じんか ) に 満 ( み ) つ。〕」などと詩にも歌にもして伝えることができよう。 しかし私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の 廃址 ( はいし ) は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易にその特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。 譬 ( たと ) えば 砲兵工廠 ( ほうへいこうしょう ) の 煉瓦塀 ( れんがべい ) にその片側を限られた小石川の 富坂 ( とみざか ) をばもう 降尽 ( おりつく ) そうという左側に一筋の 溝川 ( みぞかわ ) がある。その流れに沿うて 蒟蒻閻魔 ( こんにゃくえんま ) の方へと曲って行く横町なぞ 即 ( すなわち ) その一例である。両側の 家並 ( やなみ ) は低く道は勝手次第に 迂 ( うね ) っていて、ペンキ塗の看板や模造西洋造りの 硝子戸 ( ガラスど ) なぞは一軒も見当らぬ処から、折々氷屋の旗なぞの 閃 ( ひらめ ) く 外 ( ほか ) には横町の眺望に色彩というものは一ツもなく、 仕立屋 ( したてや ) 芋屋 駄菓子屋 ( だがしや ) 挑灯屋 ( ちょうちんや ) なぞ昔ながらの 職業 ( なりわい ) にその日の暮しを立てている 家 ( うち ) ばかりである。私は 新開町 ( しんかいまち ) の 借家 ( しゃくや ) の 門口 ( かどぐち ) によく何々商会だの何々事務所なぞという 木札 ( きふだ ) のれいれいしく下げてあるのを見ると、何という事もなく新時代のかかる企業に対して不安の念を起すと共に、その主謀者の人物についても甚しく危険を感ずるのである。それに 引 ( ひき ) かえてこういう貧しい裏町に昔ながらの貧しい 渡世 ( とせい ) をしている年寄を見ると同情と悲哀とに加えてまた尊敬の念を禁じ得ない。同時にこういう 家 ( うち ) の一人娘は今頃 周旋屋 ( しゅうせんや ) の 餌 ( えば ) になってどこぞで芸者でもしていはせぬかと、そんな事に 思到 ( おもいいた ) ると相も変らず日本固有の忠孝の思想と人身売買の習慣との関係やら、つづいてその結果の現代社会に及ぼす影響なぞについていろいろ込み入った考えに沈められる。 ついこの間も 麻布網代町辺 ( あざぶあみしろちょうへん ) の裏町を通った時、私は活動写真や国技館や 寄席 ( よせ ) なぞのビラが 崖地 ( がけち ) の上から吹いて来る夏の風に 飜 ( ひるがえ ) っている氷屋の 店先 ( みせさき ) 、表から一目に見通される奥の間で十五、六になる娘が 清元 ( きよもと ) をさらっているのを見て、いつものようにそっと 歩 ( あゆみ ) を 止 ( と ) めた。私は不健全な江戸の 音曲 ( おんぎょく ) というものが、今日の世にその命脈を保っている事を 訝 ( いぶか ) しく思うのみならず、今もってその哀調がどうしてかくも私の心を刺※ [#「卓+戈」、U+39B8、18-8] するかを不思議に感じなければならなかった。何気なく裏町を通りかかって小娘の 弾 ( ひ ) く 三味線 ( しゃみせん ) に感動するようでは、私は到底世界の新しい思想を迎える事は出来まい。それと共にまたこの江戸の音曲をばれいれいしく電気燈の 下 ( した ) で演奏せしめる世俗一般の風潮にも 伴 ( ともな ) って行く事は出来まい。私の感覚と趣味とまた思想とは、私の境遇に一大打撃を与える何物かの 来 ( きた ) らざる限り、次第に私をして 固陋偏狭 ( ころうへんきょう ) ならしめ、遂には全く世の中から除外されたものにしてしまうであろう。私は折々反省しようと 力 ( つと ) めても見る。同時に 心柄 ( こころがら ) なる身の末は一体どんなになってしまうものかと、いっそ 放擲 ( ほうてき ) して自分の身をば他人のようにその 果敢 ( はか ) ない 行末 ( ゆくすえ ) に対して皮肉な一種の好奇心を感じる事すらある。自分で己れの身を 抓 ( つね ) ってこの 位 ( くらい ) 力を入れればなるほどこの位痛いものだと独りでいじめて独りで涙ぐんでいるようなものである。或時は表面に 恬淡洒脱 ( てんたんしゃだつ ) を 粧 ( よそお ) っているが心の底には絶えず果敢いあきらめを宿している。これがために「涙でよごす 白粉 ( おしろい ) のその顔かくす無理な酒」というような珍しくもない 唄 ( うた ) が、聞く度ごとに私の心には一種特別な刺※ [#「卓+戈」、U+39B8、19-4] を与える。私は 後 ( うしろ ) から 勢 ( いきおい ) よく襲い過ぎる自動車の響に狼狽して、 表通 ( おもてどおり ) から日の当らない裏道へと逃げ込み、そして人に 後 ( おく ) れてよろよろ歩み行く処に、わが 一家 ( いっか ) の興味と共に苦しみ、また得意と共に悲哀を見るのである。 [#改ページ]

第二 淫祠

裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで 日和下駄 ( ひよりげた ) をカラカラ 鳴 ( なら ) して行く 裏通 ( うらどおり ) にはきまって 淫祠 ( いんし ) がある。淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのままに打捨てて置かれれば結構、ややともすれば取払われべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に 或 ( ある ) 趣 ( おもむき ) を添える上からいって淫祠は 遥 ( はるか ) に銅像以上の審美的価値があるからである。 本所深川 ( ほんじょふかがわ ) の堀割の 橋際 ( はしぎわ ) 、 麻布芝辺 ( あざぶしばへん ) の極めて急な坂の下、あるいは繁華な町の倉の間、または寺の多い裏町の角なぞに立っている小さな 祠 ( ほこら ) やまた 雨 ( あま ) ざらしのままなる 石地蔵 ( いしじぞう ) には今もって必ず 願掛 ( がんがけ ) の 絵馬 ( えま ) や奉納の 手拭 ( てぬぐい ) 、或時は線香なぞが上げてある。現代の教育はいかほど日本人を新しく 狡猾 ( こうかつ ) にしようと 力 ( つと ) めても今だに一部の 愚昧 ( ぐまい ) なる民の心を奪う事が出来ないのであった。 路傍 ( ろぼう ) の淫祠に祈願を 籠 ( こ ) め 欠 ( か ) けたお地蔵様の 頸 ( くび ) に 涎掛 ( よだれかけ ) をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。義賊になるかも知れぬ。 無尽 ( むじん ) や 富籤 ( とみくじ ) の 僥倖 ( ぎょうこう ) のみを夢見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を 企 ( くわだ ) てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない。 淫祠は大抵その 縁起 ( えんぎ ) とまたはその 効験 ( こうけん ) のあまりに 荒唐無稽 ( こうとうむけい ) な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである。 聖天様 ( しょうでんさま ) には 油揚 ( あぶらあげ ) のお 饅頭 ( まんじゅう ) をあげ、 大黒様 ( だいこくさま ) には 二股大根 ( ふたまただいこん ) 、お 稲荷様 ( いなりさま ) には油揚を 献 ( あ ) げるのは誰も皆知っている処である。 芝日蔭町 ( しばひかげちょう ) に 鯖 ( さば ) をあげるお稲荷様があるかと思えば 駒込 ( こまごめ ) には 炮烙 ( ほうろく ) をあげる炮烙地蔵というのがある。頭痛を祈ってそれが 癒 ( なお ) れば御礼として炮烙をお地蔵様の頭の上に載せるのである。 御厩河岸 ( おうまやがし ) の 榧寺 ( かやでら ) には虫歯に 効験 ( しるし ) のある 飴嘗 ( あめなめ ) 地蔵があり、 金竜山 ( きんりゅうざん ) の 境内 ( けいだい ) には塩をあげる塩地蔵というのがある。 小石川富坂 ( こいしかわとみざか ) の 源覚寺 ( げんかくじ ) にあるお 閻魔様 ( えんまさま ) には 蒟蒻 ( こんにゃく ) をあげ、 大久保百人町 ( おおくぼひゃくにんまち ) の 鬼王様 ( きおうさま ) には 湿瘡 ( しつ ) のお礼に 豆腐 ( とうふ ) をあげる、 向島 ( むこうじま ) の 弘福寺 ( こうふくじ ) にある「 石 ( いし ) の 媼様 ( ばあさま ) 」には子供の 百日咳 ( ひゃくにちぜき ) を祈って 煎豆 ( いりまめ ) を 供 ( そな ) えるとか聞いている。 無邪気でそしてまたいかにも 下賤 ( げす ) ばったこれら愚民の習慣は、 馬鹿囃子 ( ばかばやし ) にひょっとこの踊または 判 ( はん ) じ 物 ( もの ) 見たような奉納の絵馬の 拙 ( つたな ) い絵を見るのと同じようにいつも限りなく私の心を慰める。単に 可笑 ( おか ) しいというばかりではない。理窟にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである。 [#改ページ]

第三 樹

目に青葉 山 ( やま ) 時鳥 ( ほととぎす ) 初鰹 ( はつがつお ) 。江戸なる過去の都会の最も美しい時節における情趣は簡単なるこの十七字にいい 尽 ( つく ) されている。 北斎 ( ほくさい ) 及び 広重 ( ひろしげ ) らの江戸 名所絵 ( めいしょえ ) に 描 ( えが ) かれた所、これを 文字 ( もんじ ) に代えたならば、即ちこの一句に尽きてしまうであろう。 東京はその市内のみならず周囲の近郊まで 日々 ( にちにち ) 開けて行くばかりであるが、しかし幸にも社寺の境内、 私人 ( しじん ) の邸宅、また 崖地 ( がけち ) や 路 ( みち ) のほとりに、まだまだ 夥 ( おびただ ) しく樹木を残している。今や 工揚 ( こうじょう ) の 煤烟 ( ばいえん ) と電車の響とに 日本晴 ( にほんばれ ) の空にも 鳶 ( とんび ) ヒョロヒョロの声 稀 ( まれ ) に、雨あがりのふけた夜に月は出ても 蜀魂 ( ほととぎす ) はもう 啼 ( な ) かなくなった。初鰹の 味 ( あじわい ) とてもまた汽車と氷との便あるがために昔のようにさほど珍しくもなくなった。しかし目に見る青葉のみに至っては、 毎年 ( まいねん ) 花ちる 後 ( のち ) の新暦五月となれば、 下町 ( したまち ) の川のほとりにも、山の手の坂の上にも、 市中 ( しちゅう ) 到る処その色の美しさにわれらは東京なる都市に対して始めて江戸伝来の固有なる快感を催し得るのである。 東京に住む人、 試 ( こころみ ) に初めて 袷 ( あわせ ) を着たその日の朝といわず、昼といわず、また夕暮といわず、 外出 ( そとで ) の折の道すがら、 九段 ( くだん ) の坂上、 神田 ( かんだ ) の 明神 ( みょうじん ) 、 湯島 ( ゆしま ) の 天神 ( てんじん ) 、または芝の 愛宕山 ( あたごやま ) なぞ、随処の高台に登って市中を見渡したまえ。輝く 初夏 ( しょか ) の空の 下 ( した ) 、際限なくつづく瓦屋根の 間々 ( あいだあいだ ) に、あるいは 銀杏 ( いちょう ) 、あるいは 椎 ( しい ) 、 樫 ( かし ) 、柳なぞ、いずれも新緑の色 鮮 ( あざやか ) なる 梢 ( こずえ ) に、日の光の 麗 ( うるわ ) しく 照添 ( てりそ ) うさまを見たならば、東京の都市は模倣の西洋 造 ( づくり ) と電線と銅像とのためにいかほど醜くされても、まだまだ全く捨てたものでもない。東京にはどこといって口にはいえぬが、やはり何となく東京らしい固有な趣があるような気がするであろう。 もし今日の東京に果して都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素をば樹木と水流に 俟 ( ま ) つものと断言する。山の手を 蔽 ( おお ) う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である。 巴里 ( パリー ) の巴里たる 体裁 ( ていさい ) は寺院宮殿劇場等の建築があれば 縦 ( たと ) え樹と水なくとも足りるであろう。しかるにわが東京においてはもし 鬱然 ( うつぜん ) たる樹木なくんばかの壮麗なる 芝山内 ( しばさんない ) の 霊廟 ( れいびょう ) とても完全にその美とその威儀とを保つ事は出来まい。 庭を作るに樹と水の必要なるはいうまでもない。都会の美観を作るにもまたこの二つを除くわけには 行 ( ゆ ) かない。幸にも東京の地には昔から 夥 ( おびただ ) しく樹木があった。今なお 芝田村町 ( しばたむらちょう ) に残っている 公孫樹 ( いちょう ) の如く徳川氏 入国 ( にゅうごく ) 以前からの古木だといい伝えられているものも少くはない。 小石川久堅町 ( こいしかわひさかたまち ) なる 光円寺 ( こうえんじ ) の 大銀杏 ( おおいちょう ) 、また 麻布善福寺 ( あざぶぜんぷくじ ) にある 親鸞上人 ( しんらんしょうにん ) 手植 ( てうえ ) の銀杏と称せられるものの如き、いずれも数百年の老樹である。 浅草観音堂 ( あさくさかんのんどう ) のほとりにも名高い銀杏の樹は 二株 ( ふたかぶ ) もある。小石川植物園内の大銀杏は維新後 危 ( あやう ) く 伐 ( き ) り倒されようとした 斧 ( おの ) の跡が残っているために今ではかえって老樹を 愛重 ( あいちょう ) する人の多く知る処となっている。東京市中にはもしそれほどの故事来歴を有せざる銀杏の大木を探り歩いたならまだなかなか数多いことであろう。小石川 水道端 ( すいどうばた ) なる 往来 ( おうらい ) の真中に立っている 第六天 ( だいろくてん ) の 祠 ( ほこら ) の 側 ( そば ) 、また 柳原通 ( やなぎわらどおり ) の 汚 ( きたな ) い 古着屋 ( ふるぎや ) の屋根の上にも大きな銀杏が立っている。神田 小川町 ( おがわまち ) の通にも私が 一橋 ( ひとつばし ) の中学校へ通う頃には大きな銀杏が 煙草屋 ( たばこや ) の屋根を 貫 ( つらぬ ) いて電信柱よりも高く 聳 ( そび ) えていた。 麹町 ( こうじまち ) の 番町辺 ( ばんちょうへん ) 牛込御徒町 ( うしごめおかちまち ) 辺を通れば昔は旗本の屋敷らしい邸内の 其処此処 ( そこここ ) に銀杏の大樹の立っているのを見る。 銀杏は 黄葉 ( こうよう ) の頃神社仏閣の 粉壁朱欄 ( ふんぺきしゅらん ) と相対して眺むる時、最も日本らしい山水を 作 ( な ) す。ここにおいて浅草観音堂の銀杏はけだし東都の 公孫樹 ( こうそんじゅ ) 中の 冠 ( かん ) たるものといわねばならぬ。 明和 ( めいわ ) のむかし、この樹下に 楊枝店柳屋 ( ようじみせやなぎや ) あり。その美女お 藤 ( ふじ ) の姿は今に 鈴木春信一筆斎文調 ( すずきはるのぶいっぴつさいぶんちょう ) らの 錦絵 ( にしきえ ) に残されてある。

銀杏に比すれば松は更によく神社仏閣と調和して、あくまで日本らしくまた支那らしい風景をつくる。江戸の武士はその邸宅に花ある木を植えず、 常磐木 ( ときわぎ ) の中にても殊に松を 尊 ( たっと ) び愛した故に、 元 ( もと ) 武家の屋敷のあった処には今もなお緑の色かえぬ松の姿にそぞろ昔を思わせる処が少くない。 市 ( いち ) ヶ 谷 ( や ) の 堀端 ( ほりばた ) に 高力松 ( こうりきまつ ) 、 高田老松町 ( たかたおいまつちょう ) に 鶴亀松 ( つるかめまつ ) がある。 広重 ( ひろしげ ) の絵本『 江戸土産 ( えどみやげ ) 』によって、江戸の 都人士 ( とじんし ) が 遍 ( あまね ) く名高い松として眺め賞したるものを挙ぐれば 小名木川 ( おなぎがわ ) の五本松、 八景坂 ( はっけいざか ) の 鎧掛松 ( よろいかけまつ ) 、 麻布 ( あざぶ ) の一本松、 寺島村蓮華寺 ( てらじまむられんげじ ) の 末広松 ( すえひろまつ ) 、 青山竜巌寺 ( あおやまりゅうがんじ ) の 笠松 ( かさまつ ) 、 亀井戸普門院 ( かめいどふもんいん ) の 御腰掛松 ( おこしかけまつ ) 、 柳島妙見堂 ( やなぎしまみょうけんどう ) の松、 根岸 ( ねぎし ) の 御行 ( おぎょう ) の 松 ( まつ ) 、 隅田川 ( すみだがわ ) の 首尾 ( しゅび ) の 松 ( まつ ) なぞその他なおいくらもあろう。しかし大正三年の今日幸に 枯死 ( こし ) せざるものいくばくぞや。 青山竜巌寺の松は北斎の錦絵『 富嶽卅六景 ( ふがくさんじゅうろっけい ) 』中にも描かれてある。私は大久保の 佗住居 ( わびずまい ) より遠くもあらぬ青山を目がけ昔の江戸図をたよりにしてその寺を捜しに行った事がある。寺は青山 練兵場 ( れんぺいじょう ) を横切って兵営の裏手なる 千駄 ( せんだ ) ヶ 谷 ( や ) の一隅に残っていたが、堂宇は見るかげもなく改築せられ、境内狭しと建てられた 貸家 ( かしや ) に、松は愚か庭らしい 閑地 ( あきち ) さえ見当らなかった。この近くに山の手の 新日暮里 ( しんにっぽり ) といわれて、日暮里の 花見寺 ( はなみでら ) に比較せられた 仙寿院 ( せんじゅいん ) の名園ある事は、これも『 江戸名所図絵 ( えどめいしょずえ ) 』で知っている処から、 日和下駄 ( ひよりげた ) の歩きついでに 尋 ( たず ) ねあてて見れば、古びた 惣門 ( そうもん ) を 潜 ( くぐ ) って登る石段の両側に茶の木の美しく刈込まれたるに 辛 ( から ) くも昔を忍ぶのみ。庭は 跡方 ( あとかた ) もなく 伐開 ( きりひら ) かれ本堂の横手の墓地も申訳らしく 僅 ( わずか ) な 地坪 ( じつぼ ) を残すばかりであった。 今日 ( こんにち ) 上野博物館の構内に残っている松は 寛永寺 ( かんえいじ ) の 旭 ( あさひ ) の 松 ( まつ ) または 稚児 ( ちご ) の 松 ( まつ ) とも称せられたものとやら。首尾の松は既に跡なけれど根岸にはなお御行の松の 健 ( すこやか ) なるあり。麻布 本村町 ( ほんむらちょう ) の 曹渓寺 ( そうけいじ ) には 絶江 ( ぜっこう ) の 松 ( まつ ) 、 二本榎高野山 ( にほんえのきこうやさん ) には 独鈷 ( どっこ ) の 松 ( まつ ) と称せられるものがある。その 形 ( かたち ) 古き絵に比べ見て同じようなればいずれも昔のままのものであろう。

柳は桜と共に春来ればこきまぜて都の錦を 織成 ( おりな ) すもの故、 市中 ( しちゅう ) の樹木を愛するもの決してこれを 閑却 ( かんきゃく ) する訳には 行 ( ゆ ) くまい。桜には上野の 秋色桜 ( しゅうしきざくら ) 、 平川天神 ( ひらかわてんじん ) の 鬱金 ( うこん ) の 桜 ( さくら ) 、麻布 笄町長谷寺 ( こうがいちょうちょうこくじ ) の 右衛門桜 ( うえもんざくら ) 、青山 梅窓院 ( ばいそういん ) の 拾桜 ( ひろいざくら ) 、また今日はありやなしや知らねど名所絵にて名高き渋谷の 金王桜 ( こんのうざくら ) 、 柏木 ( かしわぎ ) の右衛門桜、あるいはまた 駒込吉祥寺 ( こまごめきちじょうじ ) の 並木 ( なみき ) の 桜 ( さくら ) の如く、来歴あるものを 捜 ( もと ) むれば 数多 ( あまた ) あろうが、柳に至ってはこれといって名前のあるものは殆どないようである。 隨の 煬帝 ( ようだい ) 長安 ( ちょうあん ) に 顕仁宮 ( けんじんきゅう ) を 営 ( いとな ) むや 河南 ( かなん ) に 済渠 ( さいきょ ) を開き 堤 ( つつみ ) に柳を植うる事一千三百里という。 金殿玉楼 ( きんでんぎょくろう ) その影を 緑波 ( りょくは ) に流す処 春風 ( しゅんぷう ) に 柳絮 ( りゅうじょ ) は雪と飛び 黄葉 ( こうよう ) は 秋風 ( しゅうふう ) に 菲々 ( ひひ ) として舞うさまを 想見 ( おもいみ ) れば 宛 ( さなが ) ら青貝の 屏風 ( びょうぶ ) 七宝 ( しっぽう ) の古陶器を見る如き色彩の眩惑を覚ゆる。けだし水の流に柳の糸のなびきゆらめくほど心地よきはない。東都 柳原 ( やなぎわら ) の土手には神田川の流に臨んで、 筋違 ( すじかい ) の 見附 ( みつけ ) から 浅草 ( あさくさ ) 見附に至るまで 々 ( さんさん ) として柳が 生茂 ( おいしげ ) っていたが、東京に改められると間もなく堤は取崩されて今見る如き赤煉瓦の長屋に変ってしまった。 (土手を取崩したのは『武江年表』によれば明治四年四月またここに供長家を立てたのは明治十二、三年頃である。) 柳橋 ( やなぎばし ) に柳なきは既に 柳北 ( りゅうほく ) 先生『 柳橋新誌 ( りゅうきょうしんし ) 』に「橋以レ柳為レ名而不レ植二一株之柳一〔 橋 ( はし ) は 柳 ( やなぎ ) を 以 ( もっ ) て 名 ( な ) と 為 ( な ) すに、 一株 ( いっしゅ ) の 柳 ( やなぎ ) も 植 ( う ) えず〕」とある。しかして 両国橋 ( りょうごくばし ) よりやや川下の 溝 ( みぞ ) に小橋あって 元柳橋 ( もとやなぎばし ) といわれここに一樹の 老柳 ( ろうりゅう ) ありしは柳北先生の同書にも見えまた 小林清親翁 ( こばやしきよちかおう ) が東京名所絵にも描かれてある。図を見るに 川面 ( かわづら ) 籠 ( こむ ) る朝霧に両国橋 薄墨 ( うすずみ ) にかすみ渡りたる 此方 ( こなた ) の岸に、幹太き一樹の柳少しく 斜 ( ななめ ) になりて立つ。その 木蔭 ( こかげ ) に 縞 ( しま ) の 着流 ( きながし ) の男一人手拭を肩にし 後向 ( うしろむ ) きに水の流れを眺めている。 閑雅 ( かんが ) の趣 自 ( おのずか ) ら画面に溢れ何となく 猪牙舟 ( ちょきぶね ) の 艪声 ( ろせい ) と 鴎 ( かもめ ) の鳴く 音 ( ね ) さえ聞き得るような 心地 ( ここち ) がする。かの柳はいつの頃枯れ朽ちたのであろう。今は 河岸 ( かし ) の様子も変り 小流 ( こながれ ) も埋立てられてしまったので元柳橋の跡も尋ねにくい。 半蔵御門 ( はんぞうごもん ) より 外桜田 ( そとさくらだ ) の堀あるいはまた 日比谷馬場先和田倉御門外 ( ひびやばばさきわだくらごもんそと ) へかけての 堀端 ( ほりばた ) には一斉に柳が 植 ( うわ ) っていて処々に 水撒 ( みずまき ) の車が片寄せてある。この柳は恐らく明治になってから植えたものであろう。広重が東都名勝の錦絵の 中 ( うち ) 外桜田の景を 看 ( み ) ても堀端の 往来際 ( おうらいぎわ ) には一本の柳とても描かれてはいない。土手を下りた 水際 ( みずぎわ ) の柳の井戸の所に唯 一株 ( ひとかぶ ) の柳があるばかりである。余の 卑見 ( ひけん ) を以てすれば、水を 隔 ( へだ ) てて対岸なる古城の石垣と老松を望まんには、此方の堤に柳あるは眺望を 遮 ( さえぎ ) りまた眼界を狭くするの 嫌 ( きらい ) あるが故にむしろなきに 如 ( し ) くはない。いわんやかかる処に西洋風の 楓 ( かえで ) の如きを植うるにおいてをや。 東京市は 頻 ( しきり ) に西洋都市の外観に 倣 ( なら ) わんと欲して近頃この種の楓または 橡 ( とち ) の 類 ( たぐい ) を各区の路傍に植付けたが、その最も不調和なるは 赤坂 ( あかさか ) 紀 ( き ) の 国坂 ( くにざか ) の往来に越す処はあるまい。赤坂離宮のいかにも御所らしく京都らしく見える 筋塀 ( すじべい ) に対して 異国種 ( いこくだね ) の楓の並木は何たる 突飛 ( とっぴ ) ぞや。山の手の殊に堀近き処の往来には並木の用は更にない。並木の緑なくとも山の手一帯には何処という事なく樹木が目につく。並木は繁華の下町において最も効能がある。 銀座駒形人形町通 ( ぎんざこまがたにんぎょうちょうどおり ) の柳の 木 ( こ ) かげに夏の 夜 ( よ ) の露店 賑 ( にぎわ ) う有様は、 煽風器 ( せんぷうき ) なくとも天然の凉風自在に 吹通 ( ふきかよ ) う星の 下 ( した ) なる一大 勧工場 ( かんこうば ) にひとしいではないか。 都下の樹木にして以上の 外 ( ほか ) なお有名なるは青山練兵場内のナンジャモンジャの木、 本郷西片町 ( ほんごうにしかたまち ) 阿部伯爵家の 椎 ( しい ) 、同区 弓町 ( ゆみちょう ) の 大樟 ( おおくすのき ) 、 芝三田 ( しばみた ) 蜂須賀 ( はちすか ) 侯爵邸の椎なぞがある。 煩 ( わずらわ ) しければ一々述べず。 [#改ページ]

第四 地図

蝙蝠傘 ( こうもりがさ ) を杖に 日和下駄 ( ひよりげた ) を 曳摺 ( ひきず ) りながら 市中 ( しちゅう ) を歩む時、私はいつも携帯に便なる 嘉永板 ( かえいばん ) の 江戸切図 ( えどきりず ) を 懐中 ( ふところ ) にする。これは何も今時出版する 石版摺 ( せきばんずり ) の東京地図を嫌って 殊更 ( ことさら ) 昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄曳摺りながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引合せて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを 目 ( ま ) のあたり比較対照する事ができるからである。 例えば 牛込弁天町辺 ( うしごめべんてんちょうへん ) は道路取りひろげのため近頃全く面目を 異 ( こと ) にしたが、その 裏通 ( うらどおり ) なる 小流 ( こながれ ) に今なおその名を残す 根来橋 ( ねごろばし ) という名前なぞから、これを江戸切図に引合せて、私は歩きながらこの 辺 ( へん ) に 根来組同心 ( ねごろぐみどうしん ) の屋敷のあった事を知る時なぞ、歴史上の大発見でもしたように訳もなくむやみと嬉しくなるのである。かような馬鹿馬鹿しい無益な興味の 外 ( ほか ) に、また一ツ昔の地図の便利な事は 雪月花 ( せつげつか ) の名所や神社仏閣の位置をば殊更目につきやすいように 色摺 ( いろずり ) にしてあるのみならず時としては案内記のようにこの処より何々まで 凡幾町 ( およそいくちょう ) 植木屋多しなぞと説明が加えてある事である。凡そ東京の地図にして精密正確なるは陸地測量部の地図に 優 ( まさ ) るものはなかろう。しかしこれを眺めても何らの興味も起らず、風景の 如何 ( いかん ) をも更に想像する事が出来ない。土地の高低を示す 蚰蜒 ( げじげじ ) の足のような符号と、何万分の一とか何とかいう 尺度一点張 ( ものさしいってんばり ) の正確と精密とはかえって当意即妙の自由を失い見る人をして 唯 ( ただ ) 煩雑の思をなさしめるばかりである。見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き 柳原 ( やなぎわら ) の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また 飛鳥山 ( あすかやま ) より遠く 日光 ( にっこう ) 筑波 ( つくば ) の山々を見ることを得れば 直 ( ただち ) にこれを雲の 彼方 ( かなた ) に 描示 ( えがきしめ ) すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味 津々 ( しんしん ) よく平易にその要領を会得せしめている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも 遥 ( はるか ) に直感的また印象的の方法に出でたものと見ねばならぬ。現代西洋風の制度は政治法律教育万般のこと 尽 ( ことごと ) くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く 大岡越前守 ( おおおかえちぜんのかみ ) の 眼力 ( がんりき ) は江戸絵図の如し。更に 語 ( ご ) を 換 ( か ) ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである。 江戸絵図はかくて日和下駄蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ 伴侶 ( はんりょ ) となった。江戸絵図によって見知らぬ裏町を 歩 ( あゆ ) み行けば身は 自 ( おのずか ) らその時代にあるが如き心持となる。実際現在の東京 中 ( じゅう ) には 何処 ( いずこ ) に行くとも心より恍惚として去るに忍びざるほど美麗なもしくは荘厳な風景建築に 出遇 ( であ ) わぬかぎり、いろいろと無理な方法を取りこれによって 纔 ( わずか ) に幾分の興味を 作出 ( つくりだ ) さねばならぬ。 然 ( しか ) らざれば如何に 無聊 ( ぶりょう ) なる 閑人 ( かんじん ) の身にも現今の束京は全く散歩に 堪 ( た ) えざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想を 便 ( たよ ) りにして、例えば銀座の 角 ( かど ) のライオンを以て直ちに 巴里 ( パリー ) のカッフェーに 擬 ( ぎ ) し帝国劇場を以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人にはあるいは有益にして興味ある方法かも知れぬ。しかし現代日本の西洋式 偽文明 ( ぎぶんめい ) が森永の西洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる 輩 ( ともがら ) に対しては、東京なる都会の興味は 勢 ( いきおい ) 尚古的 ( しょうこてき ) 退歩的たらざるを得ない。われわれは 市 ( いち ) ヶ 谷 ( や ) 外濠 ( そとぼり ) の埋立工事を見て、いかにするとも将来の新美観を予測することの出来ない限り、 愛惜 ( あいせき ) の 情 ( じょう ) は自ら人をしてこの堀に 藕花 ( ぐうか ) の 馥郁 ( ふくいく ) とした昔を思わしめる。 私は 四谷見附 ( よつやみつけ ) を出てから 迂曲 ( うきょく ) した外濠の 堤 ( つつみ ) の、丁度その 曲角 ( まがりかど ) になっている 本村町 ( ほんむらちょう ) の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から 牛込 ( うしごめ ) を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷 八幡 ( はちまん ) の桜早くも散って、 茶 ( ちゃ ) の 木 ( き ) 稲荷 ( いなり ) の茶の木の 生垣 ( いけがき ) 伸び茂る頃、 濠端 ( ほりばた ) づたいの道すがら、 行手 ( ゆくて ) に望む牛込小石川の高台かけて、 緑 ( みどり ) 滴 ( したた ) る新樹の 梢 ( こずえ ) に、ゆらゆらと 初夏 ( しょか ) の雲凉し 気 ( げ ) に動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこの 辺 ( あたり ) を中心にして江戸の狂歌が勃興した 天明 ( てんめい ) 時代の風流を 思起 ( おもいおこ ) すのである。『狂歌 才蔵集 ( さいぞうしゅう ) 』夏の 巻 ( まき ) にいわずや、

馬場金埒 ( ばばきんらち ) 花はみなおろし 大根 ( だいこ ) となりぬらし 鰹 ( かつお ) に似たる 今朝 ( けさ ) の横雲 紀躬鹿 ( きのみじか ) 花の山にほひ袋の春過ぎて青葉ばかりとなりにけるかな 地形方丸 ( じぎょうかたまる ) 夏たちて 布子 ( ぬのこ ) の綿はぬきながらたもとにのこる春のはな 帋 ( がみ )

江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄の散歩に興味を添えしむるものである。 私は小石川なる父の家の 門札 ( もんふだ ) に、第四 大区 ( だいく ) 第何小区何町何番地と 所書 ( ところがき ) のしてあったのを記憶している。東京府が今日の如く十五区六郡に区劃されたのは、丁度私の生れた頃のこと。それまでは十一の大区に分たれていたのである。私は 柳北 ( りゅうほく ) の随筆、 芳幾 ( よしいく ) の 綿絵 ( にしきえ ) 、 清親 ( きよちか ) の名所絵、これに東京絵図を合せ照してしばしば明治初年の 渾沌 ( こんとん ) たる新時代の感覚に触るる事を楽しみとする。 市中 ( しちゅう ) を散歩しつつこの年代の東京絵図を開き見れば 諸処 ( しょしょ ) の 重立 ( おもだ ) った大名屋敷は大抵海陸軍の御用地となっている。 下谷佐竹 ( したやさたけ ) の屋敷は 調練場 ( ちょうれんば ) となり、市ヶ谷と 戸塚村 ( とつかむら ) なる 尾州侯 ( びしゅうこう ) の藩邸、小石川なる水戸の 館第 ( かんてい ) も今日われわれの見る如く陸軍の 所轄 ( しょかつ ) となり名高き庭苑も追々に踏み荒されて行く。 鉄砲洲 ( てっぽうず ) なる 白河楽翁公 ( しらかわらくおうこう ) が 御下屋敷 ( おしもやしき ) の 浴恩園 ( よくおんえん ) は小石川の 後楽園 ( こうらくえん ) と並んで江戸名苑の一に数えられたものであるが、今は海軍省の軍人ががやがや 寄集 ( よりあつま ) って酒を呑む 倶楽部 ( クラブ ) のようなものになってしまった。江戸絵図より目を転じて東京絵図を見れば誰しも 仏蘭西 ( フランス ) 革命史を読むが如き感に打たれるであろう。われわれはそれよりも時としては更に深い感慨に沈められるといってもよい。 何故 ( なにゆえ ) なれば、仏蘭西の 市民 ( シトワイヤン ) は政変のために軽々しくヴェルサイユの如きルウブルの如き大なる国民的美術的建築物を 壊 ( こぼ ) ちはしなかったからである。現代官僚の教育は常に 孔孟 ( こうもう ) の教を尊び忠孝仁義の道を説くと聞いているが、お茶の水を 過 ( すぎ ) る度々「 仰高 ( ぎょうこう ) 」の二字を掲げた 大成殿 ( たいせいでん ) の表門を仰げば、瓦は落ちたるままに雑草も除かず風雨の破壊するがままに任せてある。しかして世人の更にこれを怪しまざるが如きに至っては、われらは唯 唖然 ( あぜん ) たるより 外 ( ほか ) はない。 [#改ページ]

第五 寺

杖 ( つえ ) のかわりの 蝙蝠傘 ( こうもりがさ ) と共に私が 市中 ( しちゅう ) 散歩の道しるべとなる昔の 江戸切絵図 ( えどきりえず ) を開き見れば江戸中には東西南北到る処に 夥 ( おびただ ) しく寺院神社の散在していた事がわかる。江戸の都会より諸侯の館邸と 武家 ( ぶけ ) の屋敷と神社仏閣を除いたなら残る処の面積は殆どない 位 ( くらい ) であろう。明治初年神仏の区別を 分明 ( ぶんめい ) にして以来殊には近年に至って市区改正のため仏寺の取払いとなったものは 尠 ( すくな ) くない。それにもかかわらず寺院は今なお市中 何処 ( いずこ ) という限りもなく、あるいは坂の上 崖 ( がけ ) の下、川のほとり橋の 際 ( きわ ) 、到る処にその門と堂の屋根を 聳 ( そびやか ) している。一箇所大きい寺のあるあたりには 塔中 ( たっちゅう ) また 寺中 ( じちゅう ) と呼ばれて小さい寺が幾軒も続いている。そして町の名さえ 寺町 ( てらまち ) といわれた処は 下谷 ( したや ) 浅草 ( あさくさ ) 牛込 ( うしごめ ) 四谷 ( よつや ) 芝 ( しば ) を始め各区に渡ってこれを見出すことが出来る。私は 目的 ( めあて ) なく散歩する 中 ( うち ) おのずからこの寺の多い町の方へとのみ 日和下駄 ( ひよりげた ) を 曳摺 ( ひきず ) って行く。 上野寛永寺 ( うえのかんえいじ ) の楼閣は早く兵火に 罹 ( かか ) り 芝増上寺 ( しばぞうじょうじ ) の本堂も 祝融 ( しゅくゆう ) の 災 ( わざわい ) に 遭 ( あ ) う事再三。 谷中天王寺 ( やなかてんのうじ ) は 僅 ( わずか ) に傾ける五重塔に 往時 ( おうじ ) の 名残 ( なごり ) を 留 ( とど ) むるばかり。 本所羅漢寺 ( ほんじょらかんじ ) の 螺堂 ( さざえどう ) も既に頽廃し 内 ( なか ) なる五百の羅漢のみ幸に移されてその大半を今や郊外 目黒 ( めぐろ ) の一寺院に見る。かくては今日東京市中の寺院にして 輪奐 ( りんかん ) の美 人目 ( じんもく ) を眩惑せしむるものは僅に浅草の 観音堂 ( かんのんどう ) 音羽護国寺 ( おとわごこくじ ) の 山門 ( さんもん ) その 他 ( た ) 二、三に過ぎない。歴史また美術の上よりして東京市中の寺院がさしたる興味を 牽 ( ひ ) かないのは当然の事である。私は秩序を立てて東京中の寺院を歴訪しようという訳でもなく、また 強 ( し ) いて人の知らない寺院をさがし出そうと 企 ( くわだ ) てている訳でもない。私は 唯 ( ただ ) 古びた貧しい 小家 ( こいえ ) つづきの 横町 ( よこちょう ) なぞを通り 過 ( すぎ ) る時、ふと路のほとりに半ば崩れかかった寺の門を見付けてああこんな処にこんなお寺があったのかと思いながら、そっとその 門口 ( もんぐち ) から 境内 ( けいだい ) を 窺 ( うかが ) い、青々とした苔と古池に茂った水草の花を見るのが何となく嬉しいというに過ぎない。京都鎌倉あたりの名高い寺々を見物するのとは 異 ( ことな ) って、東京市中に散在したつまらない寺にはまた別種の興味がある。これは単独に寺の建築やその歴史から感ずる興味ではなく、いわば小説の叙景もしくは芝居の 道具立 ( どうぐだて ) を見るような興味に似ている。私は 本所深川辺 ( ほんじょふかがわへん ) の堀割を散歩する折 夕汐 ( ゆうしお ) の水が低い岸から往来まで溢れかかって、 荷船 ( にぶね ) や 肥料船 ( こえぶね ) の 笘 ( とま ) が貧家の屋根よりもかえって高く見える間からふと 彼方 ( かなた ) に 巍然 ( ぎぜん ) として 聳 ( そび ) ゆる寺院の屋根を望み見る時、しばしば 黙阿弥 ( もくあみ ) 劇中の背景を想い起すのである。 かくの如き 溝泥臭 ( どぶどろくさ ) い堀割と 腐 ( くさ ) った木の橋と肥料船や 芥船 ( ごみぶね ) や 棟割長屋 ( むねわりながや ) なぞから成立つ陰惨な光景中に寺院の屋根を望み 木魚 ( もくぎょ ) と鐘とを聞く 情趣 ( おもむき ) は、本所と深川のみならず浅草 下谷辺 ( したやへん ) においてもまた変る処がない。私は今近世の社会問題からは全く隔離して仮に単独な絵画的詩興の上からのみかかる貧しい町の光景を見る時、東京の貧民窟には 竜動 ( ロンドン ) や 紐育 ( ニューヨーク ) において見るが如き西洋の貧民窟に比較して、同じ悲惨な 中 ( うち ) にも 何処 ( どこ ) となくいうべからざる静寂の気が 潜 ( ひそ ) んでいるように思われる。 尤 ( もっと ) も 深川小名木川 ( ふかがわおなぎがわ ) から 猿江 ( さるえ ) あたりの 工場町 ( こうじょうまち ) は、工場の建築と無数の 煙筒 ( えんとう ) から吐く煤烟と絶間なき機械の震動とによりて、やや西洋風なる余裕なき悲惨なる光景を呈し 来 ( きた ) ったが、今 然 ( しか ) らざる 他 ( た ) の場所の貧しい町を窺うに、場末の路地や裏長屋には仏教的迷信を背景にして江戸時代から伝襲し 来 ( きた ) ったそのままなる日蔭の生活がある。怠惰にして無責任なる愚民の疲労せる物哀れな忍従の生活がある。近来一部の政治家と新聞記者とは各自党派の勢力を張らんがために、これらの裏長屋にまで人権問題の 福音 ( ふくいん ) を 強 ( し ) いようと 急 ( あせ ) り立っている。さればやがて数年の 後 ( のち ) には 法華 ( ほっけ ) の 団扇太鼓 ( うちわだいこ ) や 百万遍 ( ひゃくまんべん ) の声全く 歇 ( や ) み路地裏の水道 共用栓 ( きょうようせん ) の 周囲 ( まわり ) からは人権問題と労働問題の 喧 ( かしま ) しい演説が聞かれるに違いない。しかし幸か不幸かいまだ全く文明化せられざる今日においてはかかる裏長屋の 路地内 ( ろじうち ) には時として 巫女 ( いちこ ) が 梓弓 ( あずさゆみ ) の歌も聞かれる。 清元 ( きよもと ) も聞かれる。 盂蘭盆 ( うらぼん ) の 燈籠 ( とうろう ) や 果敢 ( はか ) ない 迎火 ( むかいび ) の 烟 ( けむり ) も見られる。彼らが江戸の専制時代から遺伝し来ったかくの如き 果敢 ( はか ) ない裏淋しい 諦 ( あきら ) めの精神修養が 漸次 ( ぜんじ ) 新時代の教育その他のために消滅し、 徒 ( いたずら ) に覚醒と反抗の新空気に触れるに至ったならば、私はその時こそ真に下層社会の悲惨な生活が開始せられるのだ。そして政治家と新聞記者とが十分に私欲を満す時が来るのだと信じている。いつの世にか弱いものの利を得た時代があろう。弱い者が 自 ( みずか ) らその弱い事を忘れ軽々しく浮薄なる時代の声に誘惑されようとするのは、誠に 外 ( よそ ) の見る目も痛ましい限りといわねばならぬ。 私は敢て自分一家の趣味ばかりのために、 古寺 ( ふるでら ) と荒れた墓場とその附近なる裏屋の貧しい光景とを喜ぶのではない。江戸専制時代の迷信と無智とを伝承した彼らが生活の外形に接して直ちにこれを我が精神修養の一助になさんと欲するのである。実際私は下谷浅草本所深川あたりの古寺の多い 溝際 ( どぶぎわ ) の町を通る度々、見るもの聞くものから幾多の教訓と感慨とを 授 ( さず ) けられるか知れない。私は日進月歩する近世医学の 効験 ( こうけん ) を信じないのでは決してない。電気治療もラヂウム鉱泉の力をもあながち信用しないのではない。しかし私はここに不衛生なる裏町に住んでいる果敢ない人たちが今なお迷信と 煎薬 ( せんじぐすり ) とにその 生命 ( せいめい ) を托しこの世を夢と簡単にあきらめをつけている事を思えば、私は医学の進歩しなかった時代の人々の病苦災難に対する態度の泰然たると、その生活の簡易なるとに対して深く敬慕の念なきを得ない。およそ近世人の喜び迎えて「便利」と呼ぶものほど意味なきものはない。東京の書生がアメリカ人の如く万年筆を便利として使用し始めて以来文学に科学にどれほどの進歩が見られたであろう。電車と自動車とは東京市民をして 能 ( よ ) く時間の節倹を実施させているのであろうか。 私はかように好んで 下町 ( したまち ) の寺とその附近の裏町を尋ねて歩くと共にまた山の手の坂道に臨んだ寺をも決して閑却しない。山の手の坂道はしばしばその 麓 ( ふもと ) に聳え立つ寺院の屋根樹木と 相俟 ( あいま ) って一幅の 好画図 ( こうがと ) をつくることがある。私は寺の屋根を眺めるほど愉快なことはない。怪異なる 鬼瓦 ( おにがわら ) を起点として奔流の如く傾斜する寺院の瓦屋根はこれを下から 打仰 ( うちあお ) ぐ時も、あるいはこれを上から 見下 ( みおろ ) す時も共に言うべからざる爽快の感を 催 ( もよお ) させる。近来日本人は土木の 工 ( こう ) を起すごとに 力 ( つと ) めて欧米各国の建築を模倣せんとしているが、私の目にはいまだ一ツとして寺観の屋根を仰ぐが如き雄大なる美感を起させたものはない。新時代の建築に対するわれわれの失望は 啻 ( ただ ) に建築の様式のみに留まらず、建築と周囲の風景樹木等の不調和なる事である。現代人の好んで用ゆる煉瓦の 赤色 ( あかいろ ) と松杉の如き植物の濃く強き 緑色 ( りょくしょく ) と、光線の烈しき日本固有の 藍色 ( らんしょく ) の空とは何たる永遠の不調和であろう。日本の自然は 尽 ( ことごと ) く強い色彩を持っている。これにペンキあるいは 煉瓦 ( れんが ) の色彩を対時せしめるのは余りに無謀といわねばならぬ。 試 ( こころみ ) に寺院の屋根と 廂 ( ひさし ) と廻廊を見よ。日本寺院の建築は山に河に村に都に、いかなる処においても、必ずその周囲の風景と樹木と、また空の色とに調和して、ここに特色ある日本固有の風景美を組織している。日本の風景と寺院の建築とは 両々 ( りょうりょう ) 相俟 ( あいま ) って全く引離すことが出来ないほどに混和している。京都 宇治 ( うじ ) 奈良 宮島 ( みやじま ) 日光等の神社仏閣とその風景との関係は、暫らくこれを日本旅行者の研究に任せて、私はここにそれほど誇るに足らざる我が東京市中のものについてこれを 観 ( み ) よう。 不忍 ( しのばず ) の 池 ( いけ ) に 泛 ( うか ) ぶ弁天堂とその前の 石橋 ( いしばし ) とは、上野の山を 蔽 ( おお ) う杉と松とに対して、または池一面に咲く 蓮花 ( はすのはな ) に対して最もよく調和したものではないか。これらの 草木 ( そうもく ) とこの風景とを眼前に置きながら、 殊更 ( ことさら ) に西洋風の建築または橋梁を作って、その上から蓮の花や 緋鯉 ( ひごい ) や亀の子などを平気で見ている現代人の心理は到底私には解釈し得られぬ処である。浅草観音堂とその 境内 ( けいだい ) に立つ 銀杏 ( いちょう ) の老樹、上野の 清水堂 ( きよみずどう ) と春の桜秋の 紅葉 ( もみじ ) の対照もまた日本固有の植物と建築との調和を示す一例である。 建築は 元 ( もと ) より人工のものなれば風土気侯の 如何 ( いかん ) によらず 亜細亜 ( アジヤ ) の 土上 ( どじょう ) に 欧羅巴 ( ヨウロッパ ) の塔を 建 ( たつ ) るも容易であるが、天然の植物に至っては人意のままに 猥 ( みだり ) にこれを移し植えることは出来ない。無情の植物はこの点において最大の芸術家哲学者よりも 遥 ( はるか ) によく己れを知っている。私は日本人が日本の国土に生ずる特有の植物に対して 最少 ( もすこ ) し深厚なる愛情を持っていたなら、たとえ西洋文明を模倣するにしても今日の如く故国の風景と建築とを 毀損 ( きそん ) せずに済んだであろうと思っている。電線を引くに不便なりとて遠慮 会釈 ( えしゃく ) もなく 路傍 ( ろぼう ) の木を 伐 ( き ) り、または昔からなる 名所 ( めいしょ ) の眺望や 由緒 ( ゆいしょ ) のある老樹にも構わずむやみやたらに赤煉瓦の高い家を建てる現代の状態は、実に 根柢 ( こんてい ) より自国の特色と伝来の文明とを 破却 ( はきゃく ) した暴挙といわねばならぬ。この暴挙あるがために始めて日本は二十世紀の強国になったというならば、外観上の強国たらんがために日本はその尊き内容を全く犠牲にしてしまったものである。 私は上野博物館の門内に 入 ( い ) る時、 表慶館 ( ひょうけいかん ) の 傍 ( かたわら ) に今なお不思議にも余命を保っている老松の形と赤煉瓦の建築とを対照して、これが日本固有の貴重なる古美術を収めた宝庫かと誠に奇異なる感に打たれる。 日本橋 ( にほんばし ) の 大通 ( おおどおり ) を歩いて三井三越を始めこの 辺 ( へん ) に競うて立つアメリカ風の高い商店を望むごとに、私はもし東京市の実業家が真に日本橋といい 駿河町 ( するがちょう ) と呼ぶ名称の何たるかを知りこれに対する伝説の興味を感じていたなら、繁華な 市中 ( しちゅう ) からも 日本晴 ( にほんばれ ) の青空遠く富士山を望み得たという昔の眺望の幾分を保存させたであろうと 愚 ( ぐ ) にもつかぬ事を考え出す。私は 外濠 ( そとぼり ) の土手に残った松の木をば雪の 朝 ( あした ) 月の 夕 ( ゆうべ ) 、折々の季節につれて、現今の市中第一の風景として 悦 ( よろこ ) ぶにつけて、近頃 四谷見附内 ( よつやみつけうち ) に新築された大きな赤い 耶蘇 ( やそ ) の学校の建築をば心の底から憎まねばならぬ。日常かかる不調和な市街の光景に接した目を転じて、 一度 ( ひとたび ) 市内に残された寺院神社を 訪 ( と ) えばいかにつまらぬ堂宇もまたいかに狭い 境内 ( けいだい ) も私の心には無限の 慰藉 ( いしゃ ) を与えずにはいない。 私は市中の寺院や神社をたずね歩いて最も 幽邃 ( ゆうすい ) の感を与えられるのは、境内に 進入 ( すすみい ) って近く本堂の建築を打仰ぐよりも、路傍に立つ 惣門 ( そうもん ) を 潜 ( くぐ ) り、 彼方 ( かなた ) なる境内の樹木と本堂鐘楼 等 ( とう ) の屋根を背景にして、その前に 聳 ( そび ) える 中門 ( ちゅうもん ) または山門をば、長い敷石道の 此方 ( こなた ) から遠く静に眺め渡す時である。浅草の観音堂について論ずれば 雷門 ( かみなりもん ) は既に 焼失 ( やけう ) せてしまったが今なお残る 二王門 ( におうもん ) をば 仲店 ( なかみせ ) の敷石道から望み見るが如き光景である。あるいはまた 麻布広尾橋 ( あざぶひろおばし ) の 袂 ( たもと ) より一本道の 端 ( はず ) れに 祥雲寺 ( しょううんじ ) の門を見る如き、あるいは 芝大門 ( しばだいもん ) の 辺 ( へん ) より道の両側に 塔中 ( たっちゅう ) の寺々 甍 ( いらか ) [#「甍」は底本では「薨」] を連ぬるその端れに当って遥に 朱塗 ( しゅぬり ) の楼門を望むが如き光景である。私はかくの如き日本建築の遠景についてこれをば西洋で見た 巴里 ( パリー ) の 凱旋門 ( がいせんもん ) その 他 ( た ) の眺望に比較すると、気候と光線の関係故か、 唯 ( ただ ) 何とはなしに日本の遠景は平たく見えるような心持がする。この点において 歌川豊春 ( うたがわとよはる ) らの描いた 浮絵 ( うきえ ) の遠景木板画にはどうかすると 真 ( しん ) によくこの日本的感情を示したものがある。 私は適度の距離から寺の門を見る眺望と共にまた近寄って扉の開かれた寺の門をそのままの 額縁 ( がくぶち ) にして境内を 窺 ( うかが ) い、あるいはまた進み入って境内よりその門外を 顧 ( かえりみ ) る光景に一段の画趣を覚える。既に『 大窪 ( おおくぼ ) だより』その他の拙著において私は寺の 門口 ( もんぐち ) からその内外を見る景色の最も面白きは浅草の二王門及び 随身門 ( ずいじんもん ) である事を語った。 然 ( さ ) れば今更ここにその興味を繰返して述べる必要はない。 寺の門はかくの如く本堂の建築とは必ず適度の距離に置かれ、境内に入るものをしてその眺望よりして 自 ( おのずか ) ら 敬虔 ( けいけん ) の心を起さしめるように造られてある。寺の門は 宛 ( さなが ) ら西洋管絃楽の 序曲 ( プレリュード ) の如きものである。最初に 惣門 ( そうもん ) ありその次に 中門 ( ちゅうもん ) あり然る後幽邃なる境内あってここに始めて本堂が建てられるのである。神社について見るもまず 鳥居 ( とりい ) あり次に楼門あり、これを過ぎて始めて本殿に到る。皆相応の距離が設けられてある。この距離あって始めて日本の寺院と神社の威厳が保たれるのである。されば寺院神社の建築を美術として研究せんと欲するものは、単独にその建築を 観 ( み ) るに先立って、広く境内の敷地全体の設計並びにその地勢から観察して行かねばならぬ。これ既にゴンスやミジヨンの如き日本美術の研究者また旅行者の論ずるが如く、日本寺院の西洋と 異 ( こと ) なる 所以 ( ゆえん ) である。西洋の寺院は大抵単独に 路傍 ( ろぼう ) に 屹立 ( きつりつ ) しているのみであるが、日本の寺院に至っては如何なる小さな寺といえども 皆 ( みな ) 門を控えている。 芝増上寺 ( しばぞうじょうじ ) の 楼門 ( ろうもん ) をしてかくの如く立派に見せようがためにはその門前なる広い松原が是非とも必要になって来るであろう。 麹町日枝神社 ( こうじまちひえじんじゃ ) の 山門 ( さんもん ) の甚だ 幽邃 ( ゆうすい ) なる理由を知らんには、その周囲なる杉の木立のみならず、前に控えた高い石段の 有無 ( うむ ) をも考えねばなるまい。日本の神社と寺院とはその建築と地勢と樹木との 寔 ( まこと ) に複雑なる綜合美術である。されば境内の老樹にしてもしその 一株 ( いっしゅ ) を 枯死 ( こし ) せしむれば、全体より見て容易に修繕しがたき破損を 来 ( きた ) さしめた訳である。私はこの論法により更に一歩を進めて京都奈良の如き市街は、その貴重なる古社寺の美術的効果に対して広く市街全体をもその境内に同じきものとして取扱わねばならぬと思っている。即ちかかる市街の 停車 ( ていしゃば ) 場旅館 官衙 ( かんが ) 学校 等 ( とう ) は、その建築の体裁も出来得る限りその市街の生命たる古社寺の風致と歴史とを 傷 ( きずつ ) けぬよう、常に慎重なる注意を払うべき必要があった。しかるに近年見る所の京都の道路家屋 並 ( ならび ) に橋梁の改築工事の如きは全く 吾人 ( ごじん ) の意表に 出 ( い ) でたものである。日本いかに貧国たりとも京都奈良の二旧都をそのままに保存せしめたりとて、もしそれだけの埋合せとして新領土の開拓に努むる処あらば、一国全体の商工業より見て、さしたる損害を来す訳でもあるまい。眼前の利にのみ 齷齪 ( あくせく ) して世界に二つとない自国の宝の 値踏 ( ねぶみ ) をする 暇 ( いとま ) さえないとは、あまりに 小国人 ( しょうこくじん ) の面目を活躍させ過ぎた話である。思わず畠違いへ例の口癖とはいいながら愚痴が廻り過ぎた。世の中はどうでも勝手に 棕梠箒 ( しゅろぼうき ) 。私は自分勝手に唯一人 日和下駄 ( ひよりげた ) を 曳 ( ひ ) きずりながら黙って裏町を歩いていればよかったのだ。議論はよそう。皆様が御退屈だから。 [#改ページ]

第六 水 附渡船

仏蘭西人 ( フランスじん ) エミル・マンユの著書『都市美論』の興味ある事は既にわが随筆『 大窪 ( おおくぼ ) だより』の 中 ( うち ) に述べて置いた。エミル・マンユは都市に対する水の美を論ずる一章において、広く世界各国の都市とその河流及び江湾の審美的関係より、更に進んで運河 沼沢 ( しょうたく ) 噴水 橋梁 ( きょうりょう ) 等の 細節 ( さいせつ ) にわたってこれを説き、なおその足らざる処を補わんがために水流に映ずる市街燈火の美を論じている。 今 試 ( こころみ ) に東京の市街と水との審美的関係を考うるに、水は江戸時代より継続して 今日 ( こんにち ) においても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。陸路運輸の 便 ( べん ) を欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる 隅田川 ( すみだがわ ) とこれに通ずる幾筋の運河とは、いうまでもなく江戸商業の生命であったが、それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の価値ある 詩歌 ( しいか ) 絵画をつくらしめた。しかるに東京の今日市内の水流は単に運輸のためのみとなり、全く伝来の審美的価値を失うに至った。隅田川はいうに及ばず神田のお茶の水 本所 ( ほんじょ ) の 竪川 ( たてかわ ) を始め 市中 ( しちゅう ) の水流は、 最早 ( もは ) や現代のわれわれには昔の人が 船宿 ( ふなやど ) の 桟橋 ( さんばし ) から 猪牙船 ( ちょきぶね ) に乗って 山谷 ( さんや ) に通い 柳島 ( やなぎしま ) に遊び 深川 ( ふかがわ ) に 戯 ( たわむ ) れたような風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与えなくなった。今日の隅田川は 巴里 ( パリー ) におけるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また 紐育 ( ニューヨーク ) のホドソン、 倫敦 ( ロンドン ) のテエムスに対するが如く偉大なる 富国 ( ふこく ) の壮観をも想像させない。東京市の河流はその江湾なる 品川 ( しながわ ) の 入海 ( いりうみ ) と共に、さして美しくもなく大きくもなくまたさほどに繁華でもなく、誠に 何方 ( どっち ) つかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない。しかしそれにもかかわらず東京市中の散歩において、今日なお比較的興味あるものはやはり水流れ船動き橋かかる処の景色である。 東京の水を論ずるに当ってまずこれを区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川 中川 ( なかがわ ) 六郷川 ( ろくごうがわ ) の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の 音無川 ( おとなしがわ ) の如き 細流 ( さいりゅう ) 、第四は本所深川日本橋 京橋 ( きょうばし ) 下谷 ( したや ) 浅草 ( あさくさ ) 等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の 桜川 ( さくらがわ ) 、 根津 ( ねず ) の 藍染川 ( あいそめがわ ) 、麻布の 古川 ( ふるかわ ) 、下谷の 忍川 ( しのぶがわ ) の如きその名のみ美しき 溝渠 ( こうきょ ) 、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く 幾重 ( いくえ ) の 濠 ( ほり ) 、第七は 不忍池 ( しのばずのいけ ) 、 角筈十二社 ( つのはずじゅうにそう ) の如き池である。井戸は江戸時代にあっては 三宅坂側 ( みやけざかそば ) の 桜 ( さくら ) ヶ 井 ( い ) 、 清水谷 ( しみずだに ) の 柳 ( やなぎ ) の 井 ( い ) 、 湯島 ( ゆしま ) の 天神 ( てんじん ) の 御福 ( おふく ) の 井 ( い ) の如き、古来江戸名所の 中 ( うち ) に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった。 東京市はかくの如く海と河と堀と 溝 ( みぞ ) と、 仔細 ( しさい ) に観察し 来 ( きた ) ればそれら幾種類の水――即ち流れ動く水と 淀 ( よど ) んで動かぬ死したる水とを有する 頗 ( すこぶる ) 変化に富んだ都会である。まず品川の 入海 ( いりうみ ) を眺めんにここは目下なお築港の大工事中であれば、将来如何なる光景を呈し 来 ( きた ) るや今より予想する事はできない。今日までわれわれが年久しく見馴れて来た品川の海は 僅 ( わずか ) に 房州通 ( ぼうしゅうがよい ) の蒸汽船と 円 ( まる ) ッこい 達磨船 ( だるません ) を 曳動 ( ひきうごか ) す曳船の往来する 外 ( ほか ) 、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない 泥海 ( どろうみ ) である。 潮 ( しお ) の引く時 泥土 ( でいど ) は目のとどく限り引続いて、岸近くには古下駄に 炭俵 ( すみだわら ) 、さては皿小鉢や椀のかけらに 船虫 ( ふなむし ) のうようよと 這寄 ( はいよ ) るばかり。この汚い 溝 ( どぶ ) のような沼地を掘返しながら折々は 沙蚕 ( ごかい ) 取りが 手桶 ( ておけ ) を下げて沙蚕を取っている事がある。遠くの沖には 彼方 ( かなた ) 此方 ( こなた ) に 澪 ( みお ) や 粗朶 ( そだ ) が 突立 ( つった ) っているが、これさえ岸より眺むれば 塵芥 ( ちりあくた ) かと思われ、その 間 ( あいだ ) に 泛 ( うか ) ぶ 牡蠣舟 ( かきぶね ) や 苔取 ( のりとり ) の 小舟 ( こぶね ) も今は唯 強 ( し ) いて江戸の昔を 追回 ( ついかい ) しようとする人の眼にのみ 聊 ( いささ ) かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬこの無用なる品川湾の眺望は、 彼 ( か ) の 八 ( や ) ツ 山 ( やま ) の 沖 ( おき ) に並んで泛ぶこれも無用なる 御台場 ( おだいば ) と 相俟 ( あいま ) って、いかにも過去った時代の遺物らしく放棄された悲しい趣を示している。天気のよい時 白帆 ( しらほ ) や 浮雲 ( うきぐも ) と共に望み得られる 安房 ( あわ ) 上総 ( かずさ ) の 山影 ( さんえい ) とても、 最早 ( もは ) や今日の都会人には 彼 ( か ) の 花川戸助六 ( はたかわどすけろく ) が 台詞 ( せりふ ) にも読込まれているような爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く 湮滅 ( いんめつ ) してしまったにかかわらず、その代りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日においてはいまだ成立たずにいるのである。 芝浦 ( しばうら ) の月見も 高輪 ( たかなわ ) の 二十六夜待 ( にじゅうろくやまち ) も既になき世の 語草 ( かたりぐさ ) である。 南品 ( なんぴん ) の風流を伝えた 楼台 ( ろうだい ) も今は 唯 ( ただ ) 不潔なる 娼家 ( しょうか ) に過ぎぬ。明治二十七、八年頃 江見水蔭子 ( えみすいいんし ) がこの地の娼婦を材料として描いた小説『 泥水清水 ( どろみずしみず ) 』の一篇は当時 硯友社 ( けんゆうしゃ ) の文壇に傑作として批評されたものであったが、今よりして回想すれば、これすら既に遠い世のさまを描いた物語のような気がしてならぬ。 かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の 叢 ( むらが ) り立った 大川口 ( おおかわぐち ) の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この 後 ( ご ) とも案外長く 或 ( ある ) 一派の詩人を 悦 ( よろこ ) ばす事が出来るかも知れぬ。 木下杢太郎 ( きのしたもくたろう ) 北原白秋 ( きたはらはくしゅう ) 諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から 月島永代橋 ( つきしまえいたいばし ) あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものが 尠 ( すくな ) くなかった。全く 石川島 ( いしかわじま ) の工場を 後 ( うしろ ) にして幾艘となく帆柱を連ねて 碇泊 ( ていはく ) するさまざまな日本風の荷船や西洋形の 帆前船 ( ほまえせん ) を見ればおのずと特種の詩情が 催 ( もよお ) される。私は永代橋を渡る時活動するこの 河口 ( かわぐち ) の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた 可憐 ( かれん ) なる 彼 ( か ) の『ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋には最早や 辰巳 ( たつみ ) の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋の鉄橋をばかえってかの 吾妻橋 ( あずまばし ) や 両国橋 ( りょうごくばし ) の如くに 醜 ( みに ) くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい 河口 ( かこう ) の風景に一致している。

私が十五、六歳の頃であった。永代橋の 河下 ( かわしも ) には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として 立腐 ( たちぐさ ) れのままに繋がれていた時分、同級の中学生といつものように 浅草橋 ( あさくさばし ) の船宿から 小舟 ( こぶね ) を借りてこの 辺 ( へん ) を 漕 ( こ ) ぎ廻り、 河中 ( かわなか ) に碇泊している帆前船を見物して、こわい顔した船長から 椰子 ( やし ) の実を沢山貰って帰って来た事がある。その折私たちは船長がこの小さな帆前船を 操 ( あやつ ) って遠く南洋まで航海するのだという話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むような感に打たれ、将来自分たちもどうにかしてあのような勇猛なる航海者になりたいと思った事があった。 やはりその時分の話である。 築地 ( つきじ ) の 河岸 ( かし ) の船宿から 四挺艪 ( しちょうろ ) のボオトを借りて遠く 千住 ( せんじゅ ) の方まで漕ぎ 上 ( のぼ ) った帰り 引汐 ( ひきしお ) につれて 佃島 ( つくだじま ) の手前まで 下 ( くだ ) って来た時、突然 向 ( むこう ) から帆を上げて進んで来る大きな 高瀬船 ( たかせぶね ) に衝突し、幸いに一人も 怪我 ( けが ) はしなかったけれど、借りたボオトの 小舷 ( こべり ) をば散々に 破 ( こわ ) してしまった上に 櫂 ( かい ) を一本折ってしまった。一同は皆親がかりのものばかり、船遊びをする事も 家 ( うち ) へは秘密にしていた位なので、私たちは船宿へ帰って万一破損の弁償金を請求されたらどうしようかとその善後策を講ずるために、佃島の砂の上にボオトを引上げ浸水をかい出しながら相談をした。その結果夜暗くなってから船宿の桟橋へ船を着け、宿の亭主が 舷 ( ふなべり ) の大破損に気のつかない 中 ( うち ) 一同 一目散 ( いちもくさん ) に逃げ出すがよかろうという事になった。一同はお 浜御殿 ( はまごてん ) の石垣下まで 漕入 ( こぎい ) ってから空腹を我慢しつつ水の上の全く暗くなるのを待ち船宿の桟橋へ 上 ( あが ) るが否や、店に預けて置いた手荷物を奪うように 引掴 ( ひっつか ) み、めいめい 後 ( あと ) をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走って、 漸 ( やっ ) と息をついた事があった。その頃には東京府府立の中学校が築地にあったのでその 辺 ( へん ) の船宿では釣船の外にボオトをも貸したのである。今日築地の河岸を散歩しても私ははっきりとその船宿の 何処 ( いずこ ) にあったかを確めることが出来ない。わずか二十年 前 ( ぜん ) なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの 外 ( ほか ) はない。

大川筋 ( おおかわすじ ) 一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように 永代橋河口 ( えいたいばしかこう ) の眺望を第一とする。 吾妻橋 ( あずまばし ) 両国橋 ( りょうごくばし ) 等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。これを例するに 浅野 ( あさの ) セメント会社の工場と 新大橋 ( しんおおはし ) の 向 ( むこう ) に残る古い 火見櫓 ( ひのみやぐら ) の如き、あるいは 浅草蔵前 ( あさくさくらまえ ) の電燈会社と 駒形堂 ( こまがたどう ) の如き、 国技館 ( こくぎかん ) と 回向院 ( えこういん ) の如き、あるいは 橋場 ( はしば ) の 瓦斯 ( ガス ) タンクと 真崎稲荷 ( まっさきいなり ) の老樹の如き、それら工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、いずれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである。されば私はかくの如く過去と現在、即ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、 深川小名木川 ( ふかがわおなぎがわ ) より 猿江裏 ( さるえうら ) の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の 名残 ( なごり ) も 容易 ( たやす ) くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。大川筋は 千住 ( せんじゅ ) より両国に至るまで今日においてはまだまだ工業の侵略が 緩漫 ( かんまん ) に過ぎている。 本所小梅 ( ほんじょこうめ ) から 押上辺 ( おしあげへん ) に至る 辺 ( あたり ) も同じ事、新しい 工場町 ( こうじょうまち ) としてこれを眺めようとする時、今となってはかえって 柳島 ( やなぎしま ) の 妙見堂 ( みょうけんどう ) と料理屋の 橋本 ( はしもと ) とが目ざわりである。

運河の眺望は深川の小名木川辺に限らず、いずこにおいても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまった感興を起させる。一例を挙ぐれば 中洲 ( なかず ) と 箱崎町 ( はこざきちょう ) の 出端 ( でばな ) との間に深く 突入 ( つきい ) っている堀割はこれを箱崎町の 永久橋 ( えいきゅうばし ) または 菖蒲河岸 ( しょうぶがし ) の 女橋 ( おんなばし ) から眺めやるに水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風収まる時 競 ( きそ ) って 炊烟 ( すいえん ) を 棚曳 ( たなび ) かすさま 正 ( まさ ) に 江南沢国 ( こうなんたくこく ) の趣をなす。 凡 ( すべ ) て 溝渠 ( こうきょ ) 運河の眺望の最も変化に富みかつ活気を帯びる処は、この中洲の水のように 彼方 ( かなた ) 此方 ( こなた ) から幾筋の細い流れがやや広い堀割を中心にして一個所に落合って来る処、もしくは深川の 扇橋 ( おうぎばし ) の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処である。本所 柳原 ( やなぎわら ) の 新辻橋 ( しんつじばし ) 、 京橋八丁堀 ( きょうばしはっちょうぼり ) の 白魚橋 ( しらうおばし ) 、 霊岸島 ( れいがんじま ) の 霊岸橋 ( れいがんばし ) あたりの眺望は堀割の水のあるいは分れあるいは 合 ( がっ ) する処、橋は橋に接し、流れは流れと 相激 ( あいげき ) し、ややともすれば船は船に突当ろうとしている。私はかかる風景の 中 ( うち ) 日本橋を背にして江戸橋の上より 菱形 ( ひしがた ) をなした広い水の 片側 ( かたかわ ) には 荒布橋 ( あらめばし ) つづいて 思案橋 ( しあんばし ) 、片側には 鎧橋 ( よろいばし ) を見る眺望をば、その沿岸の商家倉庫及び街上 橋頭 ( きょうとう ) の繁華 雑沓 ( ざっとう ) と合せて、東京市内の堀割の 中 ( うち ) にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に 歳暮 ( さいぼ ) の夜景の如き 橋上 ( きょうじょう ) を往来する車の 灯 ( ひ ) は沿岸の燈火と相乱れて 徹宵 ( てっしょう ) 水の上に 揺 ( ゆらめ ) き動く有様銀座街頭の燈火より 遥 ( はるか ) に美麗である。 堀割の岸には 処々 ( しょしょ ) に 物揚場 ( ものあげば ) がある。 市中 ( しちゅう ) の生活に興味を持つものには物揚場の光景もまたしばし杖を 留 ( とど ) むるに足りる。夏の炎天 神田 ( かんだ ) の 鎌倉河岸 ( かまくらがし ) 、 牛込揚場 ( うしごめあげば ) の河岸などを通れば、荷車の馬は 馬方 ( うまかた ) と共につかれて、 河添 ( かわぞい ) の大きな柳の木の 下 ( した ) に居眠りをしている。 砂利 ( じゃり ) や瓦や 川土 ( かわつち ) を積み上げた物蔭にはきまって 牛飯 ( ぎゅうめし ) やすいとんの露店が出ている。時には氷屋も荷を 卸 ( おろ ) している。荷車の後押しをする 車力 ( しゃりき ) の女房は男と同じような身仕度をして立ち働き、その 赤児 ( あかご ) をば 捨児 ( すてご ) のように砂の上に投出していると、その 辺 ( へん ) には 痩 ( や ) せた鶏が落ちこぼれた餌をも ( あさ ) りつくして、馬の尻から 馬糞 ( ばふん ) の落ちるのを待っている。私はこれらの光景に接すると、 必 ( かならず ) 北斎あるいはミレエを連想して深刻なる絵画的写実の感興を 誘 ( いざな ) い出され、 自 ( みずか ) ら 絵事 ( かいじ ) の心得なき事を悲しむのである。

以上 河流 ( かりゅう ) と運河の外なお東京の水の美に関しては処々の下水が落合って次第に川の如き流をなす 溝川 ( みぞかわ ) の光景を尋ねて見なければならない。東京の溝川には折々 可笑 ( おか ) しいほど事実と相違した美しい名がつけられてある。例えば 芝愛宕下 ( しばあたごした ) なる 青松寺 ( せいしょうじ ) の前を流れる下水を昔から 桜川 ( さくらがわ ) と呼びまた今日では全く 埋尽 ( うずめつく ) された神田 鍛冶町 ( かじちょう ) の下水を 逢初川 ( あいそめがわ ) 、 橋場総泉寺 ( はしばそうせんじ ) の裏手から 真崎 ( まっさき ) へ出る溝川を 思川 ( おもいがわ ) 、また 小石川金剛寺坂下 ( こいしかわこんごうじざかした ) の下水を 人参川 ( にんじんがわ ) と呼ぶ 類 ( たぐい ) である。江戸時代にあってはこれらの溝川も寺院の門前や大名屋敷の 塀外 ( へいそと ) なぞ、幾分か人の目につく場所を流れていたような事から、土地の人にはその名の示すが如き特殊の感情を与えたものかも知れない。しかし今日の東京になっては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど 大袈裟 ( おおげさ ) である。かくの如くその名とその実との 相伴 ( あいともな ) わざる事は独り下水の流れのみには留まらない。江戸時代とまたその以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には 千仭 ( せんじん ) の幽谷を見るように 地獄谷 ( じごくだに ) (麹町にあり) 千日谷 ( せんにちだに ) (四谷鮫ヶ橋にあり) 我善坊 ( がぜんぼう ) ヶ 谷 ( だに ) (麻布にあり) なぞいう名がつけられ、また少しく 小高 ( こだか ) い処は直ちに 峨々 ( がが ) たる山岳の如く、 愛宕山 ( あたごやま ) 道灌山 ( どうかんやま ) 待乳山 ( まつちやま ) なぞと呼ばれている。島なき場所も 柳島 ( やなぎしま ) 三河島 ( みかわしま ) 向島 ( むこうじま ) なぞと呼ばれ、森なき処にも 烏森 ( からすもり ) 、 鷺 ( さぎ ) の 森 ( もり ) の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の 乗換場 ( のりかえば ) を間違えたり市中の道に迷ったりした 腹立 ( はらだち ) まぎれ、かかる地名の虚偽を以てこれまた都会の憎むべき悪風として観察するかも知れない。

溝川は元より下水に過ぎない。『 紫 ( むらさき ) の 一本 ( ひともと ) 』にも芝の 宇田川 ( うだがわ ) を説く 条 ( くだり ) に、「 溜池 ( ためいけ ) の 屋舗 ( やしき ) の下水落ちて 愛宕 ( あたご ) の 下 ( した ) より 増上寺 ( ぞうじょうじ ) の裏門を流れて 爰 ( ここ ) に 落 ( おつ ) る。愛宕の下、屋敷々々の下水も落ち込む故 宇田川橋 ( うだがわばし ) にては少しの川のやうに見ゆれども 水上 ( みなかみ ) はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中には下水の落合って川をなすものが少くなかった。下水の落合って川となった流れは道に沿い坂の 麓 ( ふもと ) を 廻 ( めぐ ) り流れ流れて行く 中 ( うち ) に段々広くなって、天然の河流または海に落込むあたりになるとどうやらこうやら 伝馬船 ( てんません ) を通わせる位になる。 麻布 ( あざぶ ) の 古川 ( ふるかわ ) は 芝山内 ( しばさんない ) の裏手近くその名も 赤羽川 ( あかばねがわ ) と名付けられるようになると、山内の樹木と 五重塔 ( ごじゅうのとう ) の 聳 ( そび ) ゆる麓を巡って 舟楫 ( しゅうしゅう ) の便を与うるのみか、 紅葉 ( こうよう ) の頃は 四条派 ( しじょうは ) の絵にあるような景色を見せる。 王子 ( おうじ ) の 音無川 ( おとなしがわ ) も 三河島 ( みかわしま ) の野を 潤 ( うるお ) したその末は 山谷堀 ( さんやぼり ) となって同じく船を 泛 ( うか ) べる。 下水と溝川はその上に 架 ( かか ) った汚い 木橋 ( きばし ) や、崩れた寺の塀、枯れかかった 生垣 ( いけがき ) 、または貧しい人家の 様 ( さま ) と相対して、しばしば憂鬱なる裏町の光景を組織する。即ち 小石川柳町 ( こいしかわやなぎちょう ) の 小流 ( こながれ ) の如き、 本郷 ( ほんごう ) なる 本妙寺坂下 ( ほんみょじざかした ) の溝川の如き、 団子坂下 ( だんござかした ) から 根津 ( ねづ ) に通ずる 藍染川 ( あいそめがわ ) の如き、かかる溝川流るる裏町は 大雨 ( たいう ) の降る折といえば必ず 雨潦 ( うりょう ) の氾濫に災害を 被 ( こうむ ) る処である。溝川が貧民窟に調和する光景の 中 ( うち ) 、その最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から 三之橋 ( さんのはし ) に至る間の川筋であろう。ぶりき板の破片や腐った屋根板で 葺 ( ふ ) いたあばら 家 ( や ) は数町に渡って、左右から 濁水 ( だくすい ) を 挟 ( さしはさ ) んで互にその傾いた 廂 ( ひさし ) を向い合せている。 春秋 ( はるあき ) 時候の変り目に降りつづく大雨の 度 ( たび ) ごとに、 芝 ( しば ) と麻布の高台から滝のように落ちて来る濁水は忽ち両岸に氾濫して、あばら家の腐った土台からやがては破れた 畳 ( たたみ ) までを 浸 ( ひた ) してしまう。雨が 霽 ( は ) れると水に濡れた家具や 夜具 ( やぐ ) 蒲団 ( ふとん ) を初め、何とも知れぬ 汚 ( きたな ) らしい 襤褸 ( ぼろ ) の数々は旗か 幟 ( のぼり ) のように両岸の屋根や窓の上に 曝 ( さら ) し出される。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負った 児娘 ( こむすめ ) までが 笊 ( ざる ) や籠や 桶 ( おけ ) を持って濁流の 中 ( うち ) に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る 雑魚 ( ざこ ) を捕えようと 急 ( あせ ) っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の 下 ( もと ) に、或時はかえって一種の壮観を呈している事がある。かかる揚合に看取せられる壮観は、丁度軍隊の整列もしくは舞台における 並大名 ( ならびだいみょう ) を見る時と同様で一つ一つに離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、 此処 ( ここ ) に思いがけない美麗と威厳とが形造られる。 古川橋 ( ふるかわばし ) から眺める大雨の 後 ( あと ) の貧家の光景の如きもやはりこの一例であろう。

江戸城の 濠 ( ほり ) はけだし水の美の冠たるもの。しかしこの事は叙述の筆を以てするよりもむしろ絵画の 技 ( ぎ ) を以てするに 如 ( し ) くはない。それ故私は唯 代官町 ( だいかんちょう ) の 蓮池御門 ( はすいけごもん ) 、 三宅坂下 ( みやけざかした ) の 桜田御門 ( さくらだごもん ) 、 九段坂下 ( くだんざかした ) の 牛 ( うし ) ヶ 淵 ( ふち ) 等古来人の称美する場所の名を挙げるに 留 ( とど ) めて置く。 池には古来より 不忍池 ( しのばずのいけ ) の勝景ある事これも今更説く必要がない。私は毎年の秋 竹 ( たけ ) の 台 ( だい ) に開かれる絵画展覧会を見ての帰り道、いつも 市気 ( しき ) 満々たる出品の絵画よりも、 向 ( むこう ) ヶ 岡 ( おか ) の 夕陽 ( せきよう ) 敗荷 ( はいか ) の池に反映する天然の絵画に対して杖を 留 ( とど ) むるを常とした。そして現代美術の品評よりも独り離れて自然の画趣に恍惚とする方が 遥 ( はるか ) に平和幸福である事を知るのである。 不忍池は今日市中に残された池の 中 ( うち ) の最後のものである。江戸の名所に数えられた 鏡 ( かがみ ) ヶ 池 ( いけ ) や 姥 ( うば ) ヶ 池 ( いけ ) は今更 尋 ( たずね ) る 由 ( よし ) もない。 浅草寺境内 ( せんそうじけいだい ) の 弁天山 ( べんてんやま ) の池も既に 町家 ( まちや ) となり、また赤坂の 溜池 ( ためいけ ) も 跡方 ( あとかた ) なく 埋 ( うず ) めつくされた。それによって私は将来不忍池もまた同様の運命に陥りはせぬかと 危 ( あやぶ ) むのである。老樹鬱蒼として 生茂 ( おいしげ ) る 山王 ( さんのう ) の 勝地 ( しょうち ) は、その 翠緑 ( すいりょく ) を反映せしむべき麓の溜池あって初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。もし上野の山より不忍池の水を奪ってしまったなら、それはあたかも両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであろう。都会は繁華となるに従って益々自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならぬ。都会における自然の風景はその都市に対して金力を以て 造 ( つく ) る事の出来ぬ威厳と品格とを 帯 ( おび ) させるものである。 巴里 ( パリー ) にも 倫敦 ( ロンドン ) にもあんな大きな、そしてあのように 香 ( かんば ) しい 蓮 ( はす ) の花の咲く池は見られまい。

都会の水に関して最後に 渡船 ( わたしぶね ) の事を 一言 ( いちごん ) したい。渡船は東京の都市が 漸次 ( ぜんじ ) 整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得るに従ってやがては廃絶すべきものであろう。江戸時代に 溯 ( さかのぼ ) ってこれを見れば元禄九年に 永代橋 ( えいたいばし ) が 懸 ( かか ) って、 大渡 ( おおわた ) しと呼ばれた 大川口 ( おおかわぐち ) の 渡場 ( わたしば ) は『 江戸鹿子 ( えどかのこ ) 』や『 江戸爵 ( えどすずめ ) 』などの古書にその跡を残すばかりとなった。それと同じように 御厩河岸 ( おうまやがし ) の 渡 ( わた ) し 鎧 ( よろい ) の 渡 ( わたし ) を始めとして市中諸所の渡場は、明治の初年架橋工事の 竣成 ( しゅんせい ) と共にいずれも跡を絶ち今はただ浮世絵によって当時の光景を 窺 ( うかが ) うばかりである。 しかし渡場はいまだ 悉 ( ことごと ) く東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にしてその川上に 富士見 ( ふじみ ) の 渡 ( わたし ) 、その川下に 安宅 ( あたけ ) の渡が残っている。 月島 ( つきしま ) の埋立工事が出来上ると共に、 築地 ( つきじ ) の海岸からは新に 曳船 ( ひきふね ) の渡しが出来た。 向島 ( むこうじま ) には人の知る 竹屋 ( たけや ) の渡しがあり、 橋場 ( はしば ) には橋場の渡しがある。 本所 ( ほんじょ ) の 竪川 ( たてかわ ) 、 深川 ( ふかがわ ) の 小名木川辺 ( おなぎがわへん ) の川筋には 荷足船 ( にたりぶね ) で人を渡す小さな渡場が幾個所もある。 鉄道の便宜は近世に生れたわれわれの感情から全く 羈旅 ( きりょ ) とよぶ純朴なる悲哀の詩情を 奪去 ( うばいさ ) った如く、橋梁はまた遠からず近世の都市より渡船なる古めかしい 緩 ( ゆるや ) かな情趣を取除いてしまうであろう。今日世界の都会中渡船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船があるけれど、竹屋の渡しの如く、 河水 ( かわみず ) に 洗出 ( あらいだ ) された 木目 ( もくめ ) の美しい 木造 ( きづく ) りの船、 樫 ( かし ) の 艪 ( ろ ) 、竹の 棹 ( さお ) を以てする絵の如き渡船はない。私は向島の 三囲 ( みめぐり ) や 白髭 ( しらひげ ) に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯両国橋の 有無 ( ゆうむ ) にかかわらずその 上下 ( かみしも ) に今なお渡場が残されてある如く隅田川その他の川筋にいつまでも昔のままの渡船のあらん事を 希 ( こいねが ) うのである。 橋を渡る時 欄干 ( らんかん ) の左右からひろびろした水の流れを見る事を喜ぶものは、更に岸を 下 ( くだ ) って水上に浮び 鴎 ( かもめ ) と共にゆるやかな波に 揺 ( ゆ ) られつつ 向 ( むこう ) の岸に達する渡船の愉快を容易に了解する事が出来るであろう。都会の大道には橋梁の便あって、自由に車を通ずるにかかわらず、 殊更 ( ことさら ) 岸に立って渡船を待つ心は、丁度表通に立派なアスファルト 敷 ( じき ) の道路あるにかかわらず、好んで横町や路地の 間道 ( かんどう ) を抜けて見る面白さとやや似たものであろう。渡船は自動車や電車に乗って 馳 ( は ) せ廻る東京市民の 公生涯 ( こうしょうがい ) とは多くの関係を持たない。しかし渡船は時間の消費をいとわず重い 風呂敷包 ( ふろしきづつ ) みなぞ 背負 ( せお ) ってテクテクと 市中 ( しちゅう ) を歩いている者どもには 大 ( だい ) なる休息を与え、またわれらの如き閑散なる遊歩者に向っては近代の生活に 味 ( あじわ ) われない官覚の慰安を覚えさせる。 木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い 骨董 ( こっとう ) の一つである。古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の 宝物 ( ほうもつ ) である。都市は個人の住宅と同じくその時代の生活に適当せしむべく常に改築の要あるは勿論のことである。しかしわれわれは人の家を 訪 ( と ) うた時、座敷の 床 ( とこ ) の 間 ( ま ) にその家伝来の書画を見れば何となく 奥床 ( おくゆか ) しく 自 ( おのずか ) ら主人に対して敬意を深くする。都会もその活動的ならざる 他 ( た ) の一面において極力伝来の古蹟を保存し以てその品位を 保 ( たも ) たしめねばならぬ。この点よりして渡船の如きは 独 ( ひと ) りわれら一個の偏狭なる退歩趣味からのみこれを論ずべきものではあるまい。 [#改ページ]

第七 路地

鉄橋と 渡船 ( わたしぶね ) との比較からここに 思起 ( おもいおこ ) されるのは立派な 表通 ( おもてどおり ) の街路に対してその間々に隠れている 路地 ( ろじ ) の興味である。擬造西洋館の商店並び立つ表通は丁度電車の往来する鉄橋の趣に等しい。それに反して日陰の薄暗い路地はあたかも渡船の 物哀 ( ものあわれ ) にして情味の深きに似ている。 式亭三馬 ( しきていさんば ) が 戯作 ( げさく ) 『 浮世床 ( うきよどこ ) 』の挿絵に 歌川国直 ( うたがわくになお ) が 路地口 ( ろじぐち ) のさまを描いた図がある。歌川 豊国 ( とよくに ) はその時代 (享和二年) のあらゆる階級の女の風俗を描いた絵本『 時勢粧 ( いまようかがみ ) 』の 中 ( うち ) に路地の有様を写している。路地はそれらの浮世絵に見る如く今も昔と変りなく 細民 ( さいみん ) の棲息する処、日の当った表通からは見る事の出来ない 種々 ( さまざま ) なる生活が 潜 ( ひそ ) みかくれている。 佗住居 ( わびずまい ) の 果敢 ( はかな ) さもある。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との 楽境 ( らくきょう ) もある。すいた同士の 新世帯 ( しんしょたい ) もあれば命掛けなる密通の冒険もある。されば路地は細く短しといえども趣味と変化に富むことあたかも長編の小説の如しといわれるであろう。 今日東京の表通は銀座より 日本橋通 ( にほんばしどおり ) は勿論上野の 広小路 ( ひろこうじ ) 浅草の 駒形通 ( こまがたどおり ) を始めとして 到処 ( いたるところ ) 西洋まがいの建築物とペンキ塗の看板 痩 ( や ) せ 衰 ( おとろ ) えた 並樹 ( なみき ) さては処嫌わず無遠慮に突立っている電信柱とまた目まぐるしい電線の網目のために、いうまでもなく静寂の美を保っていた江戸市街の整頓を失い、しかもなおいまだ音律的なる活動の美を有する西洋市街の列に加わる事も出来ない。さればこの中途半端の市街に対しては、 風雨雪月夕陽 ( ふううせつげつせきよう ) 等の助けを 借 ( か ) るにあらずんば到底芸術的感興を催す事ができない。表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは 一層 ( ひとしお ) 私をしてその陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである。 路地はどうかすると横町同様 人力車 ( くるま ) の通れるほど広いものもあれば、 土蔵 ( どぞう ) または人家の 狭間 ( ひあわい ) になって人一人やっと通れるかどうかと 危 ( あやぶ ) まれるものもある。勿論その住民の階級職業によって路地は種々異った 体裁 ( ていさい ) をなしている。 日本橋際 ( にほんばしぎわ ) の 木原店 ( きはらだな ) は 軒並 ( のきなみ ) 飲食店の 行燈 ( あんどう ) が出ている処から今だに 食傷新道 ( しょくしょうじんみち ) の名がついている。 吾妻橋 ( あずまばし ) の手前 東橋亭 ( とうきょうてい ) とよぶ 寄席 ( よせ ) の 角 ( かど ) から 花川戸 ( はなかわど ) の路地に 這入 ( はい ) れば、ここは芸人や 芝居者 ( しばいもの ) また遊芸の師匠なぞの多い処から何となく 猿若町 ( さるわかまち ) の 新道 ( しんみち ) の昔もかくやと推量せられる。いつも夜店の 賑 ( にぎわ ) う 八丁堀北島町 ( はっちょうぼりきたじまちょう ) の路地には片側に講釈の 定席 ( じょうせき ) 、片側には 娘義太夫 ( むすめぎだゆう ) の定席が向合っているので、 堂摺連 ( どうするれん ) の 手拍子 ( てびょうし ) は毎夜 張扇 ( はりおうぎ ) の響に 打交 ( うちまじわ ) る。 両国 ( りょうごく ) の 広小路 ( ひろこうじ ) に沿うて石を敷いた小路には小間物屋 袋物屋 ( ふくろものや ) 煎餅屋 ( せんべいや ) など 種々 ( しゅじゅ ) なる 小売店 ( こうりみせ ) の賑う有様、 正 ( まさ ) しく屋根のない 勧工場 ( かんこうば ) の廊下と見られる。 横山町辺 ( よこやまちょうへん ) のとある路地の 中 ( なか ) にはやはり立派に石を敷詰めた両側ともに 長門筒袋物 ( ながとつつふくろもの ) また筆なぞ製している 問屋 ( とんや ) ばかりが続いているので、路地一帯が倉庫のように思われる処があった。 芸者家 ( げいしゃや ) の許可された町の路地はいうまでもなく 艶 ( なまめか ) しい限りであるが、私はこの種類の 中 ( うち ) では 新橋柳橋 ( しんばしやなぎばし ) の路地よりも 新富座裏 ( しんとみざうら ) の一角をばそのあたりの堀割の夜景とまた芝居小屋の背面を見る様子とから最も趣のあるように思っている。路地の最も長くまた最も錯雑して、あたかも迷宮の観あるは 葭町 ( よしちょう ) の芸者家町であろう。路地の内に 蔵造 ( くらづくり ) の質屋もあれば 有徳 ( うとく ) な人の 隠宅 ( いんたく ) らしい板塀も見える。わが 拙作 ( せっさく ) 小説『すみだ川』の篇中にはかかる路地の或場所をばその頃見たままに写生して置いた。 路地の光景が常に私をしてかくの如く興味を催さしむるは西洋銅版画に見るが如きあるいはわが浮世絵に味うが如き平民的画趣ともいうべき一種の芸術的感興に 基 ( もとづ ) くものである。路地を通り抜ける時 試 ( こころみ ) に立止って向うを見れば、 此方 ( こなた ) は差迫る両側の建物に日を 遮 ( さえぎ ) られて 湿 ( しめ ) っぽく薄暗くなっている間から、 彼方 ( かなた ) 遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくっきり限られて、いかにも明るそうに 賑 ( にぎや ) かそうに見えるであろう。殊に表通りの向側に日の光が照渡っている時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、 往来 ( ゆきき ) の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度燈火に照された演劇の舞台を見るような思いがする。夜になって此方は真暗な路地裏から表通の燈火を見るが如きはいわずともまた 別様 ( べつよう ) の興趣がある。川添いの町の路地は折々 忍返 ( しのびがえ ) しをつけたその出口から遥に 河岸通 ( かしどおり ) のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。かくの如き光景はけだし逸品中の逸品である。 路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して 明 ( あきらか ) には描き出されていない。どこから 這入 ( はい ) って何処へ抜けられるか、あるいは何処へも抜けられず 行止 ( ゆきどま ) りになっているものか否か、それはけだしその路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。路地には往々江戸時代から伝承し 来 ( きた ) った古い名称がある。即ち 中橋 ( なかばし ) の 狩野新道 ( かのうじんみち ) というが如き歴史的 由緒 ( ゆいしょ ) あるものも 尠 ( すくな ) くない。しかしそれとてもその土地に 住古 ( すみふる ) したものの間にのみ通用されべき名前であって、東京市の市政が認めて以て 公 ( おおやけ ) の町名となしたものは恐らくは一つもあるまい。路地は即ちあくまで平民の間にのみ存在し了解されているのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然とその種属ばかりに限られた通路を作ると同じように、表通りに 門戸 ( もんこ ) を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に 自 ( おのずか ) ら彼らの棲息に適当した路地を作ったのだ。路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の 面目 ( めんぼく ) 体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の 地響 ( じひびき ) に 午睡 ( ごすい ) の夢を驚かさるる恐れなく、夏の 夕 ( ゆうべ ) は 格子戸 ( こうしど ) の外に裸体で凉む自由があり、冬の 夜 ( よ ) は 置炬燵 ( おきごたつ ) に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は 金棒引 ( かなぼうひき ) の女房によって仔細に伝えられ、 喘息持 ( ぜんそくもち ) の隠居が 咳嗽 ( せき ) は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いいがたき生活の悲哀の 中 ( うち ) に自からまた深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である。しかして 凡 ( すべ ) てこの世界のあくまで 下世話 ( げせわ ) なる感情と生活とはまたこの世界を構成する 格子戸 ( こうしど ) 、 溝板 ( どぶいた ) 、 物干台 ( ものほしだい ) 、 木戸口 ( きどぐち ) 、 忍返 ( しのびがえし ) なぞいう 道具立 ( どうぐだて ) と一致している。この点よりして路地はまた 渾然 ( こんぜん ) たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。 [#改ページ]

第八 閑地

市中 ( しちゅう ) の散歩に際して丁度前章に述べた路地と同じような興味を感ぜしむるものが 最 ( も ) う一つある。それは 閑地 ( あきち ) である。市中繁華なる街路の間に夕顔 昼顔 ( ひるがお ) 露草 車前草 ( おおばこ ) なぞいう雑草の花を見る閑地である。 閑地は元よりその時と場所とを限らず偶然に出来るもの故われわれは市内の如何なる処に如何なる閑地があるかは 地面師 ( じめんし ) ならぬ限り 予 ( あらかじ ) めこれを知る事が出来ない。 唯 ( ただ ) その場に通りかかって始めてこれを見るのみである。しかし閑地は 強 ( し ) いて捜し歩かずとも市中 到 ( いた ) るところにある。今まで久しく草の生えていた閑地が地ならしされてやがて 普請 ( ふしん ) が始まるかと思えば、いつの間にかその隣の 家 ( うち ) が取払われて、 或 ( ある ) 場合には火事で焼けたりして 爰 ( ここ ) に別の閑地ができる。そして 一雨 ( ひとあめ ) 降ればすぐに雑草が芽を吹きやがて花を咲かせ、忽ちにして 蝶々 ( ちょうちょう ) 蜻蛉 ( とんぼ ) やきりぎりすの飛んだり 躍 ( は ) ねたりする野原になってしまうと、 外囲 ( そとがこい ) はあってもないと同然、通り抜ける人たちの下駄の歯に 小径 ( こみち ) は縦横に踏開かれ、昼は子供の 遊場 ( あそびば ) 、夜は男女が密会の場所となる。夏の夜に処の若い者が 素人相撲 ( しろうとずもう ) を催すのも閑地があるためである。 市中繁華な町の倉と倉との間、または荷船の 込合 ( こみあ ) う堀割近くにある閑地には、今も昔と変りなく折々 紺屋 ( こうや ) の 干場 ( ほしば ) または 元結 ( もとゆい ) の 糸繰場 ( いとくりば ) なぞになっている処がある。それらの光景は私の眼には 直 ( ただち ) に 北斎 ( ほくさい ) の画題を 思起 ( おもいおこ ) させる。いつぞや 芝白金 ( しばしろかね ) の 瑞聖寺 ( ずいしょうじ ) という名高い 黄檗宗 ( おうばくしゅう ) の禅寺を見に行った時その門前の閑地に一人の男が 頻 ( しきり ) と元結の車を繰っていた。この景色は荒れた寺の門とその 辺 ( へん ) の貧しい人家などに対照して、私は俳人 其角 ( きかく ) が 茅場町薬師堂 ( かやばちょうやくしどう ) のほとりなる草庵の裏手、 蓼 ( たで ) の 花穂 ( はなほ ) に出でたる閑地に、 文七 ( ぶんしち ) というものが元結こぐ車の響をば昼も 蜩 ( ひぐらし ) に聞きまじえてまた殊更の心地し、

文七にふまるな庭のかたつむり 元結のぬる間はかなし虫の声 大絃 ( たいげん ) はさらすもとひに 落 ( おつ ) る 雁 ( かり )

なぞと 吟 ( ぎん ) じたる風流の故事を 思浮 ( おもいうか ) べたのであった。この事は 晋子 ( しんし ) が俳文集『 類柑子 ( るいこうじ ) 』の 中 ( うち ) 北の窓と題された一章に書かれてある。『類柑子』は私の愛読する書物の中の一冊である。

私がまだ中学校へ通っている頃までは東京中には広い閑地が諸処方々にあった。 神田三崎町 ( かんだみさきちょう ) の 調練場跡 ( ちょうれんばあと ) は 人殺 ( ひとごろし ) や 首縊 ( くびくくり ) の噂で夕暮からは誰一人通るものもない恐しい処であった。 小石川富坂 ( こいしかわとみざか ) の片側は 砲兵工廠 ( ほうへいこうしょう ) の 火避地 ( ひよけち ) で、樹木の茂った間の 凹地 ( くぼち ) には 溝 ( みぞ ) が小川のように美しく流れていた。 下谷 ( したや ) の 佐竹 ( さたけ ) ヶ 原 ( はら ) 、 芝 ( しば ) の 薩摩原 ( さつまつばら ) の如き旧諸侯の屋敷跡はすっかり町になってしまった後でも今だに原の名が残されている。 銀座通に鉄道馬車が通って、 数寄屋橋 ( すきやばし ) から 幸橋 ( さいわいばし ) を経て 虎 ( とら ) の 門 ( もん ) に至る間の 外濠 ( そとぼり ) には、まだ昔の石垣がそのままに保存されていた時分、今日の 日比谷 ( ひびや ) 公園は見通しきれぬほど広々した閑地で、冬枯の雑草に 夕陽 ( ゆうひ ) のさす景色は 目 ( ま ) のあたり 武蔵野 ( むさしの ) を見るようであった。その時分に比すれば 大名小路 ( だいみょうこうじ ) の跡なる 丸 ( まる ) の 内 ( うち ) の 三菱 ( みつびし ) ヶ 原 ( はら ) も今は大方 赤煉瓦 ( あかれんが ) の会社になってしまったが、それでもまだ処々に閑地を残している。私は 鍛冶橋 ( かじばし ) を渡って丸の内へ 這入 ( はい ) る時、いつでも東京府庁の前側にひろがっている閑地を眺めやるのである。 何故 ( なぜ ) というにこの閑地には繁茂した雑草の間に池のような広い 水潦 ( みずたまり ) が幾個所もあって夕陽の色や青空の雲の影が美しく 漂 ( ただよ ) うからである。私は何となくこういう風に打捨てられた荒地をばかつて南支那 辺 ( へん ) にある植民地の市街の裏手、または米国西海岸の新開地の街なぞで 幾度 ( いくど ) も見た事があるような気がする。 桜田見附 ( さくらだみつけ ) の外にも久しく兵営の跡が閑地のままに残されている。参謀本部下の 堀端 ( ほりばた ) を通りながら眺めると、閑地のやや 小高 ( こだか ) くなっている処に、雑草や 野蔦 ( のづた ) に 蔽 ( おお ) われたまま崩れた石垣の残っているのが見える。その石の古びた色とまた石垣の積み方とはおのずと大名屋敷の立っていた昔を思起させるが、それと共に私はまた 霞 ( かすみ ) ヶ 関 ( せき ) の坂に面した一方に今だに 一棟 ( ひとむね ) か二棟ほど荒れたまま立っている 平家 ( ひらや ) の煉瓦造を望むと、 御老中御奉行 ( ごろうじゅうごぶぎょう ) などいう代りに新しく参議だの開拓使などいう官名が行われた明治初年の時代に対して、今となってはかえって淡く寂しい一種の興味を呼出されるのである。 明治十年頃 小林清親翁 ( こばやしきよちかおう ) が新しい東京の風景を写生した水彩画をば、そのまま 木板摺 ( もくはんずり ) にした東京名所の図の 中 ( うち ) に 外 ( そと ) 桜田遠景と題して、遠く樹木の間にこの兵営の正面を望んだ処が描かれている。当時都下の平民が新に 皇城 ( こうじょう ) の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の情に打れたか。それらの感情は新しい画工のいわば 稚気 ( ちき ) を帯びた新画風と古めかしい木板摺の技術と 相俟 ( あいま ) って遺憾なく紙面に躍如としている。一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。既に 去歳 ( きょさい ) 木下杢太郎 ( きのしたもくたろう ) 氏は『芸術』第二号において小林翁の風景版画に関する新研究の 一端 ( いったん ) を漏らされたが、氏は進んで翁の経歴をたずねその芸術について更に詳細なる研究を試みられるとの事である。 小林翁の東京風景画は 古河黙阿弥 ( ふるかわもくあみ ) の世話狂言「 筆屋幸兵衛 ( ふでやこうべえ ) 」「 明石島蔵 ( あかしのしまぞう ) 」などと並んで、明治初年の東京を 窺 ( うかが ) い知るべき無上の資料である。維新の当時より 下 ( くだ ) って憲法発布に至らんとする明治二十年頃までの時代は、今日の吾人よりしてこれを回顧すれば東京の市街とその風景の変化、風俗人情流行の推移等あらゆる方面にわたって 甚 ( はなは ) だ興味あるものである。されば滑稽なるわが 日和下駄 ( ひよりげた ) の散歩は江戸の遺跡と合せてしばしばこの明治初年の東京を尋ねる事に 勉 ( つと ) めている。しかし小林翁の 版物 ( はんもの ) に描かれた新しい当時の東京も、僅か二、三十年とは 経 ( た ) たぬ 中 ( うち ) 、更に更に新しい第二の東京なるものの発達するに従って、 漸次 ( ぜんじ ) 跡方 ( あとかた ) もなく消滅して行きつつある。明治六年 筋違見附 ( すじかいみつけ ) を取壊してその石材を以て造った 彼 ( か ) の 眼鏡橋 ( めがねばし ) はそれと同じような形の 浅草橋 ( あさくさばし ) と共に、今日は皆鉄橋に 架 ( か ) け替えられてしまった。 大川端 ( おおかわばた ) なる 元柳橋 ( もとやなぎばし ) は水際に立つ柳と 諸共 ( もろとも ) 全く跡方なく取り払われ、 百本杭 ( ひゃっぽんぐい ) はつまらない石垣に改められた。今日東京市中において小林翁の東京名所絵と参照して僅にその当時の光景を保つものを求めたならば、虎の門に残っている旧工学寮の煉瓦造、九段坂上の 燈明台 ( とうみょうだい ) 、日本銀行前なる 常盤橋 ( ときわばし ) その 他 ( た ) 数箇所に過ぎまい。 官衙 ( かんが ) の建築物の如きも明治当初のままなるものは、 桜田外 ( さくらだそと ) の参謀本部、 神田橋内 ( かんだばしうち ) の印刷局、 江戸橋際 ( えどばしぎわ ) の 駅逓局 ( えきていきょく ) なぞ指折り数えるほどであろう。 閑地のことからまたしても話が妙な方面へそれてしまった。 しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。 芝赤羽根 ( しばあかばね ) の 海軍造兵廠 ( かいぐんぞうへいしょう ) の跡は現在何万坪という広い閑地になっている。これは誰も知っている通り 有馬侯 ( ありまこう ) の 屋舗跡 ( やしきあと ) で、現在 蠣殻町 ( かきがらちょう ) にある 水天宮 ( すいてんぐう ) は元この邸内にあったのである。 一立斎広重 ( いちりゅうさいひろしげ ) の『東都名勝』の 中 ( うち ) 赤羽根の図を見ると柳の 生茂 ( おいしげ ) った淋しい 赤羽根川 ( あかばねがわ ) の 堤 ( つつみ ) に沿うて大名屋敷の長屋が遠く 立続 ( たちつづ ) いている。その屋根の上から水天宮へ寄進の 幟 ( のぼり ) が幾筋となく 閃 ( ひらめ ) いている様が描かれている。この図中に見る 海鼠壁 ( なまこかべ ) の長屋と 朱塗 ( しゅぬり ) の 御守殿門 ( ごしゅでんもん ) とは去年の春頃までは 半 ( なか ) ば崩れかかったままながらなお当時の 面影 ( おもかげ ) を 留 ( とど ) めていたが、本年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に、今は跡方もなくなってしまった。 その時分――今年の五月頃の事である。友人 久米 ( くめ ) 君から突然有馬の屋敷跡には名高い猫騒動の 古塚 ( ふるづか ) が今だに残っているという事だから尋ねて見たらばと注意されて、私は 慶応義塾 ( けいおうぎじゅく ) の帰りがけ始めて久米君とこの閑地へ日和下駄を 踏入 ( ふみい ) れた。猫塚の 噂 ( うわさ ) は造兵廠が取払いになって閑地の中にはそろそろ通抜ける人たちの下駄の歯が縦横に 小径 ( こみち ) をつけ始める頃から誰いうとなくいい伝えられ、既にその事は二、三の新聞紙にも記載されていたという事であった。 私たち二人は 三田通 ( みたどおり ) に沿う 外囲 ( そとがこい ) の 溝 ( どぶ ) の 縁 ( ふち ) に 立止 ( たちどま ) って何処か 這入 ( はい ) りいい処を見付けようと思ったが、板塀には少しも 破目 ( やぶれめ ) がなく溝はまた広くてなかなか飛越せそうにも思われない。見す見す閑地の外を 迂廻 ( うかい ) して赤羽根の川端まで出て見るのも 業腹 ( ごうはら ) だし、そうかといって通過ぎた酒屋の角まで立戻って坂を登り閑地の裏手へ廻って見るのも 退儀 ( たいぎ ) である。そう思うほどこの閑地は広々としているのである。私たちはやむをえず閑地の一角に 恩賜 ( おんし ) 財団 済生会 ( さいせいかい ) とやらいう札を下げた 門口 ( もんぐち ) を見付けて、用事あり気に 其処 ( そこ ) から 構内 ( かまえうち ) へ這入って見た。構内は往来から見たと同じように 寂 ( しん ) として、更に番人のいる様子も見えない。私たちは安心してずんずんと赤煉瓦の 本家 ( おもや ) について迂廻しながらその裏手へ出てみると、僅か 上下二筋 ( うえしたふたすじ ) の 鉄条綱 ( てつじょうこう ) が引張ってあるばかりで、広々した閑地は正面に鬱々として老樹の生茂った 辺 ( あたり ) から一帯に丘陵をなし、その 麓 ( ふもと ) には大きな池があって、男や子供が大勢釣竿を持ってわいわい騒いでいる意外な景気に興味百倍して、久米君は手早く 夏羽織 ( なつばおり ) の 裾 ( すそ ) と 袂 ( たもと ) をからげるや否や身軽く鉄条綱の間をくぐって 向 ( むこう ) へ出てしまった。私は 生憎 ( あいにく ) その日は学校の図書館から借出した重い書物の包を抱えていた上に、片手には例の 蝙蝠傘 ( こうもりがさ ) を持っていた。そればかりでない。私の 穿 ( は ) いていた 藍縞仙台平 ( あいじませんだいひら ) の 夏袴 ( なつばかま ) は死んだ父親の形見でいかほど 胸高 ( むなだか ) に 締 ( し ) めてもとかくずるずると 尻下 ( しりさが ) りに 引摺 ( ひきず ) って来る。久米君は 見兼 ( みか ) ねて鉄条綱の向から重い書物の包と蝙蝠傘とを受取ってくれたので、私は日和下駄の 鼻緒 ( はなお ) を 踏〆 ( ふみし ) め、 紬 ( つむぎ ) の 一重羽織 ( ひとえばおり ) の裾を高く巻上げ、きっと夏袴の 股立 ( もちだち ) を取ると、図抜けて 丈 ( せい ) の高い身の有難さ、何の苦もなく鉄条綱をば上から 一跨 ( ひとまた ) ぎに跨いでしまった。 二人は早速 閑地 ( あきち ) の草原を横切って、 大勢 ( おおぜい ) 釣する人の集っている古池の 渚 ( なぎさ ) へと急いだ。池はその後に 聳 ( そび ) ゆる崖の高さと、また水面に枝を垂した老樹や岩石の配置から考えて、その昔ここに 久留米 ( くるめ ) 二十余万石の城主の 館 ( やかた ) が築かれていた時分には、現在水の 漂 ( ただよ ) っている面積よりも確にその二、三倍広かったらしく、また崖の中腹からは見事な滝が落ちていたらしく思われる。私は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様をば 朧気 ( おぼろげ ) ながら心の 中 ( うち ) に 描出 ( えがきだ ) した。それと共に、われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば 惜気 ( おしげ ) もなく破壊して兵営や兵器の 製造場 ( せいぞうば ) にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、 今更 ( いまさら ) の如くつくづくと思知るのであった。 池のまわりは浅草公園の釣堀も及ばぬ 賑 ( にぎやか ) さである。 鰌 ( どじょう ) と 鮒 ( ふな ) と時には大きな 鰻 ( うなぎ ) が釣れるという事だ。私たちは 水際 ( みずぎわ ) を廻って崖の方へ通ずる 小径 ( こみち ) を 攀登 ( よじのぼ ) って行くと、大木の 根方 ( ねがた ) に 爺 ( じじい ) が一人腰をかけて釣道具に駄菓子やパンなどを売っている。機を見るに敏なるこの 親爺 ( おやじ ) の商法にさすがのわれわれも 聊 ( いささ ) か敬服して、その前に立止ったついで、猫塚の 所在 ( ありか ) を尋ねると、爺さんは既に案内者然たる調子で、崖の 彼方 ( かなた ) なる森蔭の小径を教え、なお猫塚といっても今は僅にかけた石の台を残すばかりだという事まで 委 ( くわ ) しく話してくれた。 名所古蹟は 何処 ( いずく ) に限らず行って見れば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである。 唯 ( ただ ) その処まで尋ね到る間の道筋や周囲の光景及びそれに附随する感情等によって他日話の種となすに足るべき興味が 繋 ( つな ) がれるのである。有馬の猫塚は釣道具を売っている爺さんが話したよりも、来て見れば更につまらない石のかけらに過ぎなかった。果してそれが猫塚の 台石 ( だいいし ) であったか否かも甚だ不明な位であった。私たちは旧造兵廠の建物の一部をば眼下に低く 見下 ( みおろ ) す 崖地 ( がけち ) の一角に、昼なお暗く天を蔽うた老樹の 根方 ( ねがた ) と、また深く雑草に 埋 ( うず ) められた崖の中腹に一ツ二ツ落ち 転 ( ころ ) げている石を見つけたばかりである。しかしここに 来 ( きた ) るまでの崖の小径と周囲の光景とは遺憾なく私ら二人を喜ばしめた。私は実際今日の東京市中にかくも 幽邃 ( ゆうすい ) なる森林が残されていようとは夢にも思い及ばなかった。柳 椎 ( しい ) 樫 ( かし ) 杉椿なぞの大木に 交 ( まじ ) って 扇骨木 ( かなめ ) 八 ( や ) ツ 手 ( で ) なぞの庭木さえ多年手入をせぬ処から今は全く野生の林同様 七重八重 ( ななえやえ ) にその枝と幹とを入れちがえている。時節は丁度初夏の五月の事とて、これらの樹木はいずれもその枝の 撓 ( たわ ) むほど、重々しく青葉に蔽われている上に、気味の悪い名の知れぬ 寄生木 ( やどりぎ ) が大樹の 瘤 ( こぶ ) や幹の股から髪の毛のような長い葉を垂らしていた。遠い電車の響やまた近く崖下で釣する人の立騒ぐ声にも恐れず勢よく 囀 ( さえず ) る小鳥の声が鋭く 梢 ( こずえ ) から梢に反響する。私たち二人は雑草の露に 袴 ( はかま ) の 裾 ( すそ ) を 潤 ( うるお ) しながら、この森蔭の 小暗 ( おぐら ) い片隅から青葉の枝と幹との間を 透 ( すか ) して、 彼方 ( かなた ) 遥かに広々した閑地の周囲の 処々 ( しょしょ ) に残っている 練塀 ( ねりべい ) の崩れに、夏の日光の殊更明く照渡っているのを打眺め、何という訳もなく唯 惆恨 ( ちゅうちょう ) として去るに忍びざるが如くいつまでも 彳 ( たたず ) んでいた。私たちは既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。 一度 ( ひとたび ) 破壊されたその跡がここに年を経て折角 荒蕪 ( こうぶ ) の詩趣に蔽われた閑地になっている処をば、更に何らかの新しい計画が近い中にこの森とこの雑草とを取払ってしまうであろう。私たちはその事を予想して 前以 ( まえもっ ) て深く嘆息したのである。

私は雑草が好きだ。 菫 ( すみれ ) 蒲公英 ( たんぽぽ ) のような 春草 ( はるくさ ) 、 桔梗 ( ききょう ) 女郎花 ( おみなえし ) のような秋草にも劣らず私は雑草を好む。 閑地 ( あきち ) に繁る雑草、屋根に生ずる雑草、道路のほとり 溝 ( どぶ ) の 縁 ( ふち ) に生ずる雑草を愛する。閑地は即ち雑草の花園である。「 蚊帳釣草 ( かやつりぐさ ) 」の穂の 練絹 ( ねりぎぬ ) の如くに細く美しき、「猫じゃらし」の穂の毛よりも柔き、さては「 赤 ( あか ) の 飯 ( まま ) 」の花の暖そうに薄赤き、「 車前草 ( おおばこ ) 」の花の 爽 ( さわやか ) に 蒼白 ( あおじろ ) き、「 ( はこべ ) 」の花の砂よりも小くして 真白 ( ましろ ) なる、一ツ一ツに 見来 ( みきた ) れば雑草にもなかなかに捨てがたき 可憐 ( かれん ) なる 風情 ( ふぜい ) があるではないか。しかしそれらの雑草は和歌にも 咏 ( うた ) われず、 宗達 ( そうだつ ) 光琳 ( こうりん ) の絵にも描かれなかった。独り江戸平民の文学なる俳諧と狂歌あって始めて雑草が文学の上に取扱われるようになった。私は 喜多川歌麿 ( きたがわうたまろ ) の描いた『絵本 虫撰 ( むしえらび ) 』を愛して 止 ( や ) まざる理由は、この浮世絵師が 南宗 ( なんそう ) の画家も 四条派 ( しじょうは ) の画家も決して描いた事のない極めて卑俗な 草花 ( そうか ) と昆虫とを写生しているがためである。この一例を以てしても、俳諧と狂歌と浮世絵とは古来わが貴族趣味の芸術が全く閑却していた一方面を 拾取 ( ひろいと ) って、自由にこれを芸術化せしめた 大 ( だい ) なる功績を 担 ( にな ) うものである。 私は近頃 数寄屋橋外 ( すきやばしそと ) に、虎の門 金毘羅 ( こんぴら ) の社前に、神田 聖堂 ( せいどう ) の裏手に、その他諸処に新設される、公園の樹木を見るよりも、通りがかりの閑地に咲く雑草の花に対して遥にいい知れぬ興味と情趣を覚えるのである。

戸川秋骨 ( とがわしゅうこつ ) 君が『そのままの記』に霜の 戸山 ( とやま ) ヶ 原 ( はら ) という一章がある。戸山ヶ原は旧 尾州侯御下屋舗 ( びしゅうこうおしもやしき ) のあった処、その名高い庭園は荒されて陸軍戸山学校と変じ、附近は広漠たる 射的場 ( しゃてきば ) となっている。この 辺 ( あたり ) 豊多摩郡 ( とよたまごおり ) に属し近き頃まで 杜鵑花 ( つつじ ) の名所であったが、年々人家 稠密 ( ちゅうみつ ) していわゆる郊外の 新開町 ( しんかいまち ) となったにかかわらず、射的場のみは今なお依然として原のままである。秋骨君 曰 ( いわ ) く

戸山の原は東京の近郊に珍らしい 広開 ( こうかい ) した 地 ( ち ) である。 目白 ( めじろ ) の奥から 巣鴨 ( すがも ) 滝 ( たき ) の 川 ( がわ ) へかけての平野は、さらに広い 武蔵野 ( むさしの ) の趣を残したものであろう。しかしその平野は 凡 ( すべ ) て 耒耜 ( らいし ) が加えられている。立派に耕作された 畠地 ( はたち ) である。従って田園の趣はあるが野趣に至っては乏しい。しかるに戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、 立樹 ( たちき ) が沢山にある。大きくはないが 喬木 ( きょうぼく ) が立ち 籠 ( こ ) めて 叢林 ( そうりん ) を為した処もある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものは 此処 ( ここ ) にそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草を以て 蔽 ( おお ) われていて、春は 摘草 ( つみくさ ) に 児女 ( じじょ ) の自由に遊ぶに適し、秋は 雅人 ( がじん ) の 擅 ( ほしいまま ) に散歩するに 任 ( まか ) す。四季の 何時 ( いつ ) と言わず、絵画の学生が 此処 ( ここ ) 其処 ( そこ ) にカンヴァスを 携 ( たずさ ) えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊覧地である。その自然と野趣とは全く郊外の 他 ( た ) の場所に求むべからざるものである。 凡 ( およ ) そ今日の勢、いやしくも余地あれば其処に建築を起す、然らずともこれに耒耜を加うるに 躊躇 ( ちゅうちょ ) しない。然るに 如何 ( いか ) にして大久保の 辺 ( ほとり ) に、かかる殆んど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議な事にはこれが実に俗中の俗なる陸軍の 賜 ( たまもの ) である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の 射的場 ( しゃてきじょう ) で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分は殆んど不用の地であるかの如く、市民もしくは村民の 蹂躙 ( じゅうりん ) するに任してある。騎馬の兵士が大久保 柏木 ( かしわぎ ) の 小路 ( こみち ) を隊をなして 駆 ( は ) せ廻るのは、 甚 ( はなは ) だ 五月蠅 ( うるさ ) いものである。 否 ( いな ) 五月蠅いではない 癪 ( しゃく ) にさわる。天下の公道をわがもの顔に横領して、意気 頗 ( すこぶ ) る 昂 ( あが ) る如き 風 ( ふう ) あるは、われら平民の甚だ不快とする処である。しかしこの不快を与うるその大機関は、また 古 ( いにしえ ) の武蔵野をこの戸山の原に、余らのために保存してくれるものである。思えば世の中は不思議に 相贖 ( あいあがな ) うものである。一利一害、今さらながら応報の説が殊に深く感ぜられる。

秋骨君が言う処 大 ( おおい ) にわが意を得たものである。こは 直 ( ただち ) に移して 代々木 ( よよぎ ) 青山 ( あおやま ) の練兵場または 高田 ( たかた ) の 馬場 ( ばば ) 等に応用する事が出来る。晩秋の 夕陽 ( ゆうひ ) を浴びつつ高田の馬場なる 黄葉 ( こうよう ) の林に 彷徨 ( さまよ ) い、あるいは晴れたる冬の朝青山の 原頭 ( げんとう ) に雪の富士を望むが如きは、これ皆俗中の俗たる陸軍の 賜物 ( たまもの ) ではないか。 私は慶応義塾に通う電車の道すがら、 信濃町権田原 ( しなのまちごんだわら ) を 経 ( へ ) 、青山の大通を横切って 三聯隊裏 ( さんれんたいうら ) と 記 ( しる ) した赤い棒の立っている 辺 ( あた ) りまで、その沿道の大きな建物は 尽 ( ことごと ) く陸軍に属するもの、また電車の乗客街上の通行人は兵卒ならざれば士官ばかりという有様に、私はいつも世を 挙 ( あげ ) て悉く陸軍たるが如き感を深くする。それと共に権田原の林に初夏の新緑を望み、三聯隊裏と青山墓地との間の土手や草原に春は若草、秋は 芒 ( すすき ) の穂を眺めて、秋骨君のいわゆる応報の説に同感するのである。 四谷 ( よつや ) 鮫 ( さめ ) ヶ 橋 ( ばし ) と 赤坂離宮 ( あかさかりきゅう ) との間に 甲武鉄道 ( こうぶてつどう ) の線路を 堺 ( さかい ) にして 荒草 ( こうそう ) 萋々 ( せいせい ) たる 火避地 ( ひよけち ) がある。初夏の夕暮私は四谷通の 髪結床 ( かみゆいどこ ) へ行った 帰途 ( かえりみち ) または買物にでも出た時、 法蔵寺横町 ( ほうぞうじよこちょう ) だとかあるいは 西念寺横町 ( さいねんじよこちょう ) だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋 谷町 ( たにまち ) へ 下 ( お ) り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに 自然 ( おのず ) とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と 夕栄 ( ゆうばえ ) とを眺めるのである。 この散歩は 道程 ( みちのり ) の短い割に 頗 ( すこぶ ) る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が 尠 ( すくな ) くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と 肥料船 ( こえぶね ) と 製造場 ( せいぞうば ) とを背景にする 水場 ( みずば ) の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は 木立 ( こだち ) の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に 閃 ( ひらめか ) している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が 萌 ( も ) え 出 ( い ) で 四辺 ( あたり ) の木立に若葉の緑が 滴 ( したた ) る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は 一層 ( ひとしお ) 汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ 与 ( あずか ) れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り 濺 ( そそ ) ぐ夕暮なぞには破れた 障子 ( しょうじ ) にうつる燈火の影、 鴉 ( からす ) 鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す。 この暗鬱な一隅から僅に鉄道線路の土手一筋を越えると、その 向 ( むこう ) にはひろびろした火避地を前に控えて、赤坂御所の 土塀 ( どべい ) が 乾 ( いぬい ) の御門というのを 中央 ( なか ) にして長い坂道をば遠く青山の方へ 攀登 ( よじのぼ ) っている。日頃 人通 ( ひとどおり ) の少ない処とて古風な 練塀 ( ねりべい ) とそれを 蔽 ( おお ) う樹木とは殊に 気高 ( けだか ) く望まれる。私は火避地のやや御所の方に近く猫柳が四、五本乱れ生じているあたりに、或年の夏の夕暮雨のような水音を聞付け、毒虫をも恐れず草を踏み分けながらその方へ 歩寄 ( あゆみよ ) った時、柳の蔭には山の手の高台には思いも掛けない 蘆 ( あし ) の茂りが夕風にそよいでいて、井戸のように深くなった 凹味 ( くぼみ ) の底へと、 大方 ( おおかた ) 御所から落ちて来るらしい水の流が大きな 堰 ( せき ) にせかれて滝をなしているのを見た。夜になったらきっと 蛍 ( ほたる ) が飛ぶにちがいない。私はこの 夕 ( ゆうべ ) ばかり夏の 黄昏 ( たそがれ ) の長くつづく上にも夕月の光ある事を 憾 ( うら ) みながら、もと来た鮫ヶ橋の方へと 踵 ( きびす ) を返した。 鮫ヶ橋の貧民窟は一時 代々木 ( よよぎ ) の 原 ( はら ) に万国博覧会が開かれるとかいう話のあった頃、もしそうなった 暁 ( あかつき ) 四谷代々木間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を 見下 ( みおろ ) しでもすると国家の 恥辱 ( ちじょく ) になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。しかし万国博覧会も例の日本人の 空景気 ( からげいき ) で金がない処からおじゃんになり、従って鮫ヶ橋も今日なお取払われず、 西念寺 ( さいねんじ ) の急な坂下に依然として 剥 ( はげ ) ちょろのブリキ屋根を並べている。貧民窟は元より都会の美観を増すものではない。しかし万国博覧会を見物に来る西洋人に見られたからとて何もそれほどに気まりを悪るがるには及ぶまい。 当路 ( とうろ ) の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民窟の取払いよりも先ず市中諸処に立つ銅像の 取除 ( とりのけ ) を急ぐが至当であろう。

現在私の知っている東京の 閑地 ( あきち ) は大抵以上のようなものである。わが住む家の門外にもこの両三年市ヶ谷監獄署 後 ( あと ) の閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の 跡 ( あと ) に観音ができあたりは 日々 ( にちにち ) 町になって行く、遠からず 芸者家 ( げいしゃや ) が許可されるとかいう噂さえある。 芝浦 ( しばうら ) の 埋立地 ( うめたてち ) も目下家屋の建たない間は同じく閑地として見るべきものであろう。現在東京市内の閑地の中でこれほど広々とした眺望をなす処は 他 ( た ) にあるまい。夏の 夕 ( ゆうべ ) 、海の上に月の昇る頃はひろびろした閑地の雑草は一望煙の如くかすみ渡って、 彼方 ( かなた ) 此方 ( こなた ) に通ずる堀割から 荷船 ( にぶね ) の帆柱が見える景色なぞまんざら捨てたものではない。 東京市の土木工事は手をかえ品をかえ、 孜々 ( しし ) として東京市の風景を 毀損 ( きそん ) する事に勉めているが、幸にも雑草なるものあって焼野の如く木一本もない閑地にも緑柔き 毛氈 ( もうせん ) を 延 ( の ) べ、月の光あってその上に露の 珠 ( たま ) の 刺繍 ( ぬいとり ) をする。われら 薄倖 ( はくこう ) の詩人は田園においてよりも 黄塵 ( こうじん ) の都市において更に深く「自然」の恵みに感謝せねばならぬ。 [#改ページ]

第九 崖

数ある江戸名所案内記中その最も古い方に属する『 紫 ( むらさき ) の 一本 ( ひともと ) 』や『 江戸惣鹿子大全 ( えどそうがのこたいぜん ) 』なぞを見ると、坂、山、 窪 ( くぼ ) 、堀、池、橋なぞいう分類の 下 ( もと ) に江戸の地理古蹟名所の説明をしている。しかしその分類は例えば谷という処に 日比谷 ( ひびや ) 、 谷中 ( やなか ) 、 渋谷 ( しぶや ) 、 雑司 ( ぞうし ) ヶ 谷 ( や ) なぞを編入したように、地理よりも実は地名の 文字 ( もんじ ) から来る遊戯的興味に 基 ( もとづ ) いた処が 尠 ( すくな ) くない。かくの如きはけだし江戸軽文学のいかなるものにも必ず発見せられるその特徴である。 私は既に期せずして東京の水と 路地 ( ろじ ) と、つづいて 閑地 ( あきち ) に対する興味をばやや分類的に記述したので、ここにもう一つ崖なる文章を付加えて見よう。 崖は閑地や路地と同じようにわが 日和下駄 ( ひよりげた ) の散歩に尠からぬ興味を添えしめるものである。 何故 ( なぜ ) というに崖には野笹や 芒 ( すすき ) に 交 ( まじ ) って 薊 ( あざみ ) 、 藪枯 ( やぶから ) しを始めありとあらゆる雑草の繁茂した間から場所によると清水が湧いたり、 下水 ( したみず ) が谷川のように 潺々 ( せんせん ) と音して流れたりしている処がある。また落掛るように 斜 ( ななめ ) に 生 ( は ) えた樹木の幹と枝と殊に根の形なぞに絵画的興趣を覚えさせることが多いからである。もし樹木も雑草も何も生えていないとすれば、東京市中の崖は切立った赤土の夕日を浴びる時なぞ 宛然 ( えんぜん ) 堡塁 ( ほうるい ) を望むが如き悲壮の観を示す。 昔から市内の崖には別にこれという名前のついた処は一つもなかったようである。『紫の一本』その他の書にも、窪、谷なぞいう分類はあるが崖という一章は設けられていない。しかし高低の甚しい東京の地勢から考えて、崖は昔も今も変りなく市中の諸処に 聳 ( そび ) えていたに相違ない。 上野から 道灌山 ( どうかんやま ) 飛鳥山 ( あすかやま ) へかけての高地の側面は崖の 中 ( うち ) で最も偉大なものであろう。神田川を限るお茶の水の絶壁は元より 小赤壁 ( しょうせきへき ) の名がある位で、崖の最も絵画的なる実例とすべきものである。 小石川春日町 ( こいしかわかすがまち ) から 柳町 ( やなぎちょう ) 指 ( さす ) ヶ 谷 ( や ) 町 ( ちょう ) へかけての低地から、 本郷 ( ほんごう ) の 高台 ( たかだい ) を見る 処々 ( ところどころ ) には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、 樹 ( き ) や草の 生茂 ( おいしげ ) った崖が現れていた。 根津 ( ねづ ) の低地から 弥生 ( やよい ) ヶ 岡 ( おか ) と 千駄木 ( せんだぎ ) の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の 頂 ( いただき ) に添うて、根津 権現 ( ごんげん ) の方から 団子坂 ( だんござか ) の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の 中 ( うち ) で、この道ほど興味ある処はないと思っている。 片側 ( かたかわ ) は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと 危 ( あやぶ ) まれるばかり、 足下 ( あしもと ) を 覗 ( のぞ ) くと崖の中腹に生えた樹木の 梢 ( こずえ ) を 透 ( すか ) して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。されば 向 ( むこう ) は一面に 遮 ( さえぎ ) るものなき大空かぎりもなく広々として、自由に浮雲の定めなき 行衛 ( ゆくえ ) をも見極められる。左手には 上野谷中 ( うえのやなか ) に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され 其処 ( そこ ) より起る雑然たる 巷 ( ちまた ) の物音が距離のために柔げられて、かのヴェルレエヌが詩に、

かの平和なる物のひびきは 街 ( まち ) より来る……

といったような心持を起させる。 当代の 碩学 ( せきがく ) 森鴎外 ( もりおうがい ) 先生の 居邸 ( きょてい ) はこの道のほとり、 団子坂 ( だんござか ) の 頂 ( いただき ) に出ようとする処にある。二階の 欄干 ( らんかん ) に 彳 ( たたず ) むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を 観潮楼 ( かんちょうろう ) と名付けられたのだと私は聞伝えている。 (団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。) 度々私はこの観潮楼に親しく先生に 見 ( まみ ) ゆるの光栄に接しているが多くは夜になってからの事なので、惜しいかな 一度 ( ひとたび ) もまだ 潮 ( うしお ) を 観 ( み ) る機会がないのである。その代り、私は忘れられぬほど 音色 ( ねいろ ) の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ 初秋 ( しょしゅう ) の夕暮であった。先生は大方御食事中でもあったのか、私は取次の人に案内されたまま 暫 ( しばら ) くの間唯一人この観潮楼の上に取残された。楼はたしか八畳に六畳の 二間 ( ふたま ) かと記憶している。 一間 ( いっけん ) の 床 ( とこ ) には何かいわれのあるらしい 雷 ( らい ) という一字を 石摺 ( いしずり ) にした 大幅 ( たいふく ) がかけてあって、その下には古い支那の陶器と想像せられる大きな六角の 花瓶 ( かへい ) が、花一輪さしてないために、かえってこの上もなく厳格にまた冷静に見えた。座敷中にはこの床の間の軸と花瓶の 外 ( ほか ) は全く何一つ置いてないのである。額もなければ置物もない。おそるおそる四枚立の 襖 ( ふすま ) の 明放 ( あけはな ) してある次の 間 ( ま ) を 窺 ( うかが ) うと、 中央 ( まんなか ) に机が一脚置いてあったが、それさえいわば台のようなもので、一枚の板と四本の脚があるばかり、 抽出 ( ひきだし ) もなければ彫刻のかざりも何もない机で、その上には 硯 ( すずり ) もインキ壺も紙も筆も置いてはない。しかしその 後 ( うしろ ) に立てた 六枚屏風 ( ろくまいびょうぶ ) の 裾 ( すそ ) からは、 紐 ( ひも ) で 束 ( たば ) ねた西洋の新聞か雑誌のようなものの 片端 ( かたはし ) が見えたので、私はそっと首を延して 差覗 ( さしのぞ ) くと、いずれも大部のものと思われる種々なる洋書が座敷の 壁際 ( かべぎわ ) に高く積重ねてあるらしい様子であった。世間には往々読まざる書物をれいれいと 殊更 ( ことさら ) 人の見る処に 飾立 ( かざりた ) てて置く人さえあるのに、これはまた何という一風変った 癇癖 ( かんぺき ) であろう。私は『 柵草紙 ( しがらみぞうし ) 』以来の先生の文学とその性行について、何とはなく 沈重 ( ちんちょう ) に考え始めようとした。あたかもその時である。 一際 ( ひときわ ) 高く 漂 ( ただよ ) い来る 木犀 ( もくせい ) の匂と共に、上野の 鐘声 ( しょうせい ) は残暑を払う凉しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯一人、主人を待つ 間 ( ま ) の私を驚かしたのである。 私は振返って音のする方を眺めた。 千駄木 ( せんだぎ ) の 崖上 ( がけうえ ) から見る 彼 ( か ) の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる 暮靄 ( ぼあい ) に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ 燈火 ( とうか ) を 輝 ( かがやか ) し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い 黄昏 ( たそがれ ) の微光をば夢のように残していた。私はシャワンの 描 ( えが ) いた聖女ジェネヴィエーブが静に 巴里 ( パリー ) の夜景を 見下 ( みおろ ) している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。 鐘の 音 ( ね ) は長い余韻の後を追掛け追掛け 撞 ( つ ) き出されるのである。その 度 ( たび ) ごとにその響の 湧出 ( わきいづ ) る森の影は暗くなり低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のようにかえって高く、やがて鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、この何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかわるがわるに 聴澄 ( ききす ) ましながら、わが鴎外先生は静に書を読みまた筆を執られるのかと思うと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。 ところが、「ヤア大変お待たせした。失敬失敬。」といって、先生は書生のように二階の 梯子段 ( はしごだん ) を 上 ( あが ) って来られたのである。 金巾 ( かなきん ) の白い 襯衣 ( シャツ ) 一枚、その下には赤い筋のはいった軍服のヅボンを 穿 ( は ) いておられたので、何の事はない、鴎外先生は日曜貸間の二階か何かでごろごろしている兵隊さんのように見えた。 「暑い時はこれに限る。一番凉しい。」といいながら先生は女中の持運ぶ銀の皿を私の方に押出して葉巻をすすめられた。先生は陸軍省の医務局長室で私に対談せられる時にもきまって葉巻を 勧 ( すす ) められる。もし先生の生涯に 些 ( いささ ) かたりとも贅沢らしい事があるとするならば、それはこの葉巻だけであろう。 この 夕 ( ゆうべ ) 、私は親しくオイケンの哲学に関する先生の感想を 伺 ( うかが ) って、 夜 ( よ ) も九時過再び千駄木の崖道をば 根津権現 ( ねづごんげん ) の方へ 下 ( お ) り、 不忍池 ( しのばずのいけ ) の 後 ( うしろ ) を廻ると、ここにも 聳 ( そび ) え立つ 東照宮 ( とうしょうぐう ) の裏手一面の崖に、 木 ( こ ) の 間 ( ま ) の星を数えながらやがて 広小路 ( ひろこうじ ) の電車に乗った。

私の生れた 小石川 ( こいしかわ ) には崖が沢山あった。第一に思出すのは 茗荷谷 ( みょうがだに ) の 小径 ( こみち ) から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い 切支丹坂 ( きりしたんざか ) が 斜 ( ななめ ) に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が 小日向台町 ( こびなただいまち ) の裏へと 攀登 ( よじのぼ ) っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も 伐払 ( きりはら ) われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。 まだ私が七、八ツの頃かと記憶している。切支丹坂に添う崖の中腹に、 大雨 ( たいう ) か何かのために突然 真四角 ( まっしかく ) な大きな横穴が現われ、 何処 ( どこ ) まで深くつづいているのか行先が分らぬというので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃掘抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。 この茗荷谷を小日向 水道町 ( すいどうちょう ) の方へ出ると、今も往来の真中に 銀杏 ( いちょう ) の大木が立っていて、 草鞋 ( わらじ ) と 炮烙 ( ほうろく ) が沢山奉納してある小さなお宮がある。一体この 水道端 ( すいどうばた ) の通は片側に寺が幾軒となくつづいて、 種々 ( いろいろ ) の形をした 棟門 ( むねもん ) を並べている処から、今も折々私の喜んで散歩する処である。この通を行尽すと 音羽 ( おとわ ) へ曲ろうとする角に大塚火薬庫のある高い崖が聳え、その 頂 ( いただき ) にちらばらと 喬木 ( きょうぼく ) が立っている。崖の草枯れ 黄 ( きば ) み、この喬木の 冬枯 ( ふゆがれ ) した 梢 ( こずえ ) に烏が 群 ( むれ ) をなして 棲 ( とま ) る時なぞは、 宛然 ( さながら ) 文人画を見る趣がある。これと対して 牛込 ( うしごめ ) の方を眺めると 赤城 ( あかぎ ) の高地があり、正面の行手には目白の山の側面がまた崖をなしている。目白の眺望は既に 蜀山人 ( しょくさんじん ) の 東豊山 ( とうほうざん ) 十五景の狂歌にもある通り昔からの名所である。蜀山人の記に曰く

東豊山 新長谷寺目白不動尊 ( しんちょうこくじめじろふどうそん ) のたゝせ玉へる山は宝永の頃 再昌院法印 ( さいしょういんほういん ) のすめる 関口 ( せきぐち ) の 疏儀荘 ( そぎしょう ) よりちかければ 西南 ( せいなん ) にかたぶく日影に杖をたてゝ時しらぬ富士の 白雪 ( しらゆき ) をながめ 千町 ( せんちょう ) の 田面 ( たのも ) のみどりになびく風に凉みてしばらくいきをのぶとぞ聞えし又 物部 ( もののべ ) の 翁 ( おきな ) の 牛込 ( うしごめ ) にいませし頃にやありけん 南郭 ( なんかく ) 春台 ( しゅんだい ) 蘭亭 ( らんてい ) をはじめとしてこのほとりの十五景をわかちてからうたに物せし 一巻 ( いっかん ) をもみたりし事あればわが生れたる牛込の里ちかきあたりのけしきもなつかしくこゝにその題をうつして 夷歌 ( いか ) によみつゞけぬるもそのかみ 大黒屋 ( だいこくや ) ときこえし 高 ( たか ) どのには母の六十の賀の 莚 ( むしろ ) をひらきし事ありしも又 天明 ( てんめい ) のむかしなればせき 口 ( ぐち ) の紙の 漉 ( すき ) かへし目白の滝のいとのくりことになんありける

昔みし 田鼠 ( むぐら ) うづらの山ざくら 化 ( け ) しての 後 ( のち ) は花もちらほら ( しゃちほこ ) の 魚 ( うお ) 木にのぼる青葉山わたりやぐらの 牛込 ( うしごめ ) の 門 ( もん ) 何がしの大あたまにも似たるかなかまくら 道 ( みち ) に 出戸 ( でと ) の 蛍 ( ほたる ) は しら露のむすべる霜のをくてよりわせ 田 ( だ ) にはやく 落 ( おつ ) る月影 平 ( たいら ) かな 水田 ( みずた ) もことし 代 ( よ ) がよくてふねのほにほがさくかとぞみる てらまへて酒のませんともみぢ 見 ( み ) の 地口 ( じぐち ) まじりの顔の 夕 ( ゆう ) ばへ 八葉 ( はちよう ) の 芙蓉 ( ふよう ) の花を一りんのかつらの 枝 ( えだ ) にさかせてぞみる 酒かひにゆきの 中里 ( なかざと ) ひとすぢにおもひ 入江 ( いりえ ) の 江戸川 ( えどがわ ) の 末 ( すえ ) 明王 ( みょうおう ) のふるきをもつてあたらしきにゐはせ 寺 ( でら ) の 法師 ( ほうし ) たるべし 朝夕 ( あさゆう ) のかすみのいろも 赤城 ( あかぎ ) やまそなたのかたにむかでしらるゝ みあかしの 高田 ( たかた ) のかたにひかりまち 穴八幡 ( あなはちまん ) か 水 ( みず ) いなりかも 済松寺 ( さいしょうじ ) 祖心 ( そしん ) の 尼 ( あま ) の若かりしむかしつけたるかねの 声々 ( こえごえ ) 横にゆく 蟹川 ( かにがわ ) こえて 真直 ( まっすぐ ) に通る 門田 ( かどた ) の 中 ( なか ) ぜきの道 杉のはのたてる 門辺 ( かどべ ) に目白おし 羽觴 ( うしょう ) を 飛 ( とば ) す岸の 上 ( へ ) の 茶 ( ちゃ ) や 水車 ( みずぐるま ) くる/\めぐりあふことは人目つゝみのせき 口 ( ぐち ) もなし

去年の暮 巌谷四六 ( いわやしろく ) 君 (小波先生令弟) と 図 ( はか ) らず木曜会忘年会の席上に 邂逅 ( かいこう ) した時談話はたまたまわが『 日和下駄 ( ひよりげた ) 』の事に及んだ。四六君は 麹町 ( こうじまち ) 平川町 ( ひらかわちょう ) から 永田町 ( ながたちょう ) の裏通へと 上 ( のぼ ) る処に以前は実に 幽邃 ( ゆうすい ) な崖があったと話された。 小波 ( さざなみ ) 先生も四六君も 共々 ( ともども ) その頃は永田町なる故 一六 ( いちろく ) 先生の邸宅にまだ 部屋住 ( へやずみ ) の身であったのだ。丁度その時分私も一時父の住まった官舎がこの近くにあったので、憲法発布当時の淋しい麹町の昔をいろいろと追想する事ができる。一年ほど父の 住 ( すま ) っておられた某省の官宅もその庭先がやはり急な崖になっていて、物凄いばかりの 竹藪 ( たけやぶ ) であった。この竹藪には 蟾蜍 ( ひきがえる ) のいた事これまた気味悪いほどで、夏の 夕 ( ゆうべ ) まだ夜にならない中から、何十匹となく 這 ( は ) い出して来る蟾蜍に庭先は一面 大 ( おおき ) な 転太石 ( ごろたいし ) でも敷詰めたような有様になる。この庭先の崖と相対しては、一筋の細い裏通を隔てて 独逸 ( ドイツ ) 公使館の立っている高台の 背後 ( うしろ ) がやはり樹木の茂った崖になっていた。私は寒い冬の 夜 ( よ ) なぞ、日本伝来の迷信に養われた子供心に、われにもあらず幽霊や何かの事を考え出して一生懸命に 痩我慢 ( やせがまん ) しつつ 真暗 ( まっくら ) な廊下を独り 厠 ( かわや ) へ行く時、その破れた窓の障子から 向 ( むこう ) の崖なる 木立 ( こだち ) の奥深く、 巍然 ( ぎぜん ) たる西洋館の窓々に燈火の 煌々 ( こうこう ) と輝くのを見、同時にピアノの 音 ( ね ) の 漏 ( も ) るるを聞きつけて、私は西洋人の生活をば限りもなく不思議に思ったことがあった。

近頃日和下駄を 曳摺 ( ひきず ) って散歩する 中 ( うち ) 、私の目についた崖は 芝二本榎 ( しばにほんえのき ) なる 高野山 ( こうやさん ) の裏手または 伊皿子台 ( いさらごだい ) から海を見るあたり一帯の崖である。二本榎高野山の 向側 ( むこうがわ ) なる 上行寺 ( じょうぎょうじ ) は、 其角 ( きかく ) の墓ある故に人の知る処である。私は本堂の立っている崖の上から 摺鉢 ( すりばち ) の底のようなこの上行寺の墓地全体を 覗 ( のぞ ) き見る有様をば、其角の墓 諸共 ( もろとも ) に忘れがたく思っている。 白金 ( しろかね ) の 古刹 ( こさつ ) 瑞聖寺 ( ずいしょうじ ) の裏手も私には 幾度 ( いくたび ) か杖を曳くに足るべき 頗 ( すこぶ ) る 幽邃 ( ゆうすい ) なる崖をなしている。 麻布赤坂 ( あざぶあかさか ) にも芝同様崖が沢山ある。山の手に生れて山の手に育った私は、常にかの軽快 瀟洒 ( しょうしゃ ) なる船と橋と 河岸 ( かし ) の 眺 ( ながめ ) を専有する 下町 ( したまち ) を羨むの余り、この崖と坂との 佶倔 ( きっくつ ) なる風景を以て、 大 ( おおい ) に山の手の誇とするのである。『隅田川両岸一覧』に川筋の風景をのみ描き出した 北斎 ( ほくさい ) も、更に 足曳 ( あしびき ) の山の手のために、『 山復山 ( やままたやま ) 』三巻を描いたではないか。 [#改ページ]

第十 坂

前回記する処の崖といささか 重複 ( ちょうふく ) する嫌いがあるが、 市中 ( しちゅう ) の坂について少しく述べたい。坂は即ち 平地 ( へいち ) に生じた波瀾である。平坦なる 大通 ( おおどおり ) は歩いて滑らず 躓 ( つまず ) かず、車を走らせて安全無事、荷物を運ばせて賃銀安しといえども、 無聊 ( ぶりょう ) に苦しむ 閑人 ( かんじん ) の散歩には余りに単調に 過 ( すぎ ) る。けだし東京市中における眺望の一直線をなす美観は、橋あり舟ある運河の岸においてのみこれを 看得 ( みう ) るが、銀座日本橋の大通の如き平坦なる街路の眺望に至っては、われら不幸にしていまだ 泰西 ( たいせい ) の都市において経験したような感興を催さない。西洋の都市においても私は 紐育 ( ニューヨーク ) の平坦なる Fifth Avenue よりコロンビヤの高台に上る 石級 ( せききゅう ) を好み、 巴里 ( パリー ) の 大通 ( ブールヴァール ) よりも 遥 ( はるか ) にモンマルトルの高台を愛した。 里昂 ( リオン ) にあってはクロワルッスの坂道から、 手摺 ( てず ) れた古い石の欄干を越えて眼下にソオンの 河岸通 ( かしどおり ) を 見下 ( みおろ ) しながら歩いた夏の 黄昏 ( たそがれ ) をば今だに忘れ得ない。あの景色を思浮べる度々、私は 仏蘭西 ( フランス ) の都会は何処へ行ってもどうしてあのように美しいのであろう。どうしてあのように軟く人の空想を刺※ [#「卓+戈」、U+39B8、91-14] するように出来ているのであろうと、相も変らず 遣瀬 ( やるせ ) なき追憶の夢にのみ打沈められるのである。 その頃私は年なお三十に至らず、孤身 飄然 ( ひょうぜん ) 、異郷にあって更に孤客となるの 怨 ( うらみ ) なく、到る処の 青山 ( せいざん ) これ 墳墓地 ( ふんぼのち ) ともいいたいほど意気 頗 ( すこぶる ) 豪なるところがあったが今その十年の昔と、 鬢髪 ( びんぱつ ) いまだ 幸 ( さいわい ) にして霜を戴かざれど精魂漸く衰え聖代の世に男一匹の身を持てあぐみ為す事もなき苦しさに、江戸絵図を 懐中 ( ふところ ) に 日和下駄 ( ひよりげた ) 曳摺 ( ひきず ) って、既に狂歌俳句に 読古 ( よみふる ) された江戸名所の跡を 弔 ( とむら ) い歩む感慨とを比較すれば、全くわれながら一滴の涙なきを得ない。さりながら、かの 端唄 ( はうた ) の文句にも、色気ないとて苦にせまい 賤 ( しず ) が 伏家 ( ふせや ) に月もさす。 徒 ( いたずら ) に悲み 憤 ( いきどお ) って身を破るが如きはけだし賢人のなさざる処。われらが住む東京の都市いかに醜く汚しというとも、ここに住みここに 朝夕 ( ちょうせき ) を送るかぎり、醜き 中 ( うち ) にも幾分の美を捜り汚き中にもまた何かの趣を見出し、以て気は心とやら、無理やりにも少しは居心地住心地のよいように 自 ( みずか ) ら思いなす処がなければならぬ。これ元来が主意というものなき我が日和下駄の散歩の 聊 ( いささ ) か以て主意とする処ではないか。 そもそも東京市はその面積と人口においては既に世界屈指の 大都 ( だいと ) である。この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って 遥 ( はるか ) に市中を眺望する時、 誰 ( た ) が目にも 容易 ( たやす ) く感じ得らるる処である。この都に生れ育ちて四時の風物何一つ珍しい事もないまでに馴れ過ぎてしまったわれらさえ、折あって 九段坂 ( くだんざか ) 、 三田聖坂 ( みたひじりざか ) 、あるいは 霞 ( かすみ ) ヶ 関 ( せき ) を昇降する時には覚えずその眺望の大なるに歩みを 留 ( とど ) めるではないか。東京市は坂の上の眺望によって最もよくその偉大を示すというべきである。古来その眺望よりして最も名高きは 赤坂霊南坂上 ( あかさかれいなんざかうえ ) より芝 西 ( にし ) の 久保 ( くぼ ) へ下りる 江戸見坂 ( えどみざか ) である。 愛宕山 ( あたごやま ) を前にして日本橋京橋から丸の内を 一目 ( ひとめ ) に望む事が出来る。芝 伊皿子台上 ( いさらごだいうえ ) の 汐見坂 ( しおみざか ) も、天然の地形と距離との 宜 ( よろ ) しきがために品川の 御台場 ( おだいば ) 依然として昔の名所絵に見る通り道行く人の鼻先に浮べる有様、これに 因 ( よ ) ってこれを 観 ( み ) れば古来江戸名所に数えらるる地点 悉 ( ことごと ) く名ばかりの名所でない事を証するに足りる。 今市中の坂にして眺望の 佳 ( か ) なるものを挙げんか。神田お茶の水の 昌平坂 ( しょうへいざか ) は 駿河台岩崎邸門前 ( するがだいいわさきていもんぜん ) の坂と同じく 万世橋 ( まんせいばし ) を眼の下に 神田川 ( かんだがわ ) を眺むるによろしく、 皀角坂 ( さいかちざか ) (水道橋内駿河台西方) は牛込麹町の高台並びに 富嶽 ( ふがく ) を望ましめ、 飯田町 ( いいだまち ) の 二合半坂 ( にごうはんざか ) は 外濠 ( そとぼり ) を越え江戸川の流を隔てて小石川 牛天神 ( うしてんじん ) の森を眺めさせる。丁度この見晴しと相対するものは 則 ( すなわ ) ち小石川 伝通院 ( でんづういん ) 前の 安藤坂 ( あんどうざか ) で、それと並行する 金剛寺坂 ( こんごうじざか ) 荒木坂 ( あらきざか ) 服部坂 ( はっとりざか ) 大日坂 ( だいにちざか ) などは皆 斉 ( ひと ) しく小石川より牛込 赤城番町辺 ( あかぎばんちょうへん ) を見渡すによい。しかしてこれらの坂の眺望にして最も絵画的なるは紺色なす秋の 夕靄 ( ゆうもや ) の 中 ( うち ) より人家の 灯 ( ひ ) のちらつく頃、または高台の樹木の一斉に新緑に 粧 ( よそ ) わるる 初夏 ( しょか ) 晴天の日である。もしそれ明月 皎々 ( こうこう ) たる夜、 牛込神楽坂 ( うしごめかぐらざか ) 浄瑠璃坂 ( じょうるりざか ) 左内坂 ( さないざか ) また 逢坂 ( おうさか ) なぞのほとりに 佇 ( たたず ) んで 御濠 ( おほり ) の土手のつづく限り老松の 婆娑 ( ばさ ) たる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい。 坂はかくの如く眺望によりて一段の趣を添うといえども、さりとて全く眺望なきものも 強 ( あなが ) ち捨て去るには及ばない。心あってこれを 捜 ( さぐ ) らんと欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる。例えば 四谷愛住町 ( よつやあいずみちょう ) の 暗闇坂 ( くらやみざか ) 、 麻布二之橋向 ( あざぶにのはしむこう ) の 日向坂 ( ひゅうがざか ) の如きを見よ。といった処でこれらの坂はその近所に住む人の外はちょっとその名さえ知らぬほどな極めて平々凡々たるものである。しかし暗闇坂は車の 上 ( のぼ ) らぬほど急な曲った坂でその片側は 全長寺 ( ぜんちょうじ ) の墓地の樹木鬱蒼として日の光を 遮 ( さえぎ ) り、 乱塔婆 ( らんとうば ) に雑草 生茂 ( おいしげ ) る有様何となく物凄い坂である。二の橋の日向坂はその麓を流れる 新堀川 ( しんほりかわ ) の 濁水 ( だくすい ) とそれに 架 ( かか ) った 小橋 ( こばし ) と、 斜 ( ななめ ) に坂を蔽う 一株 ( ひとかぶ ) の 榎 ( えのき ) との配合が 自 ( おのずか ) ら絵になるように甚だ面白く出来ている。 振袖火事 ( ふりそでかじ ) で有名な 本郷本妙寺 ( ほんごうほんみょうじ ) 向側の坂もまたその麓を流るる下水と小橋とのために私の記憶する処である。 赤坂喰違 ( あかさかくいちがい ) より 麹町清水谷 ( こうじまちしみずだに ) へ 下 ( くだ ) る急な坂、また 上二番町辺樹木谷 ( かみにばんちょうへんじゅもくだに ) へ 下 ( おり ) る坂の如きは下弦の月鎌の如く樹頭に懸る冬の 夜 ( よ ) 、広大なるこの 辺 ( へん ) の屋敷屋敷の犬の遠吠え聞ゆる折なぞ市中とは思えぬほどのさびしさである。坂はまた土地の傾斜に添うて立つ家屋塀樹木等の見通しによって 大 ( おおい ) に眼界を美ならしむる。則ち旧 加州侯 ( かしゅうこう ) の 練塀 ( ねりべい ) 立ちつづく本郷の暗闇坂の如き、 麻布長伝寺 ( あざぶちょうでんじ ) の練塀と赤門見ゆる一本松の坂の如きはその実例である。 私はまた坂の 中 ( うち ) で 神田明神 ( かんだみょうじん ) の裏手なる本郷の 妻恋坂 ( つまごいざか ) 、 湯島天神裏花園町 ( ゆしまてんじんうらはなぞのちょう ) の坂、また少しく 辺鄙 ( へんぴ ) なるを 厭 ( いと ) わずば 白金清正公 ( しろかねせいしょうこう ) のほとりの坂、さては 牛込築土明神裏手 ( うしごめつくどみょうじんうらて ) の坂、 赤城 ( あかぎ ) 明神裏門より小石川 改代町 ( かいたいまち ) へ下りる急な坂の如く神社の裏手にある坂をば何となく特徴あるように思い、通る 度 ( たび ) ごとに物珍らしくその 辺 ( へん ) を眺めるのである。坂になった土地の傾斜は 境内 ( けいだい ) の鳥居や 銀杏 ( いちょう ) の大木や拝殿の屋根、玉垣なぞをば、或時は人家の屋根の上、或時は路地の突当りなぞ思いも掛けぬ物の間からいろいろに変化さして見せる。私はまたこういう静な坂の中途に小じんまりした貸家を見付ると用もないのに必ず立止っては 仔細 ( しさい ) らしく 貼札 ( はりふだ ) を読む。 何故 ( なぜ ) というに神社の境内に近く 佗住居 ( わびずまい ) して読書に 倦 ( う ) み苦作につかれた折 窃 ( そっ ) と着のみ着のまま 羽織 ( はおり ) も 引掛 ( ひっか ) けず我が 家 ( や ) の庭のように静な裏手から人なき境内に 歩入 ( あゆみい ) って、鳩の飛ぶのを眺めたり 額堂 ( がくどう ) の 絵馬 ( えま ) を見たりしたならば、何思うともなく唯茫然として、 容易 ( たやす ) くこの堪えがたき時間を消費する事が出来はせまいかと考えるからである。 東京の坂の 中 ( うち ) にはまた坂と坂とが谷をなす 窪地 ( くぼち ) を間にして 向合 ( むかいあわせ ) に突立っている処がある。前章市内の 閑地 ( あきち ) を記したる 条 ( じょう ) に述べた 鮫 ( さめ ) ヶ 橋 ( はし ) の如き、即ちその前後には 寺町 ( てらまち ) と 須賀町 ( すがちょう ) の坂が向合いになっている。また小石川 茗荷谷 ( みょうがだに ) にも両方の 高地 ( こうち ) が坂になっている。小石川 柳町 ( やなぎちょう ) には一方に本郷より 下 ( おり ) る坂あり、一方には小石川より下る坂があって、互に 対時 ( たいじ ) している。こういう処は地勢が切迫して坂と坂との差向いが急激に接近していれば、景色はいよいよ面白く、市中に偶然 温泉場 ( おんせんば ) の街が出来たのかと思わせるような処さえある。 市 ( いち ) ヶ 谷 ( や ) 谷町 ( たにまち ) から 仲之町 ( なかのちょう ) へ 上 ( のぼ ) る間道に古びた石段の坂がある。 念仏坂 ( ねんぶつざか ) という。 麻布飯倉 ( あざぶいいくら ) のほとりにも同じような石段の坂が立っている。 雁木坂 ( がんぎざか ) と呼ぶ。これらの 石級 ( せききゅう ) 磴道 ( とうどう ) はどうかすると私には長崎の町を想い起すよすがともなり得るので、日和下駄の歩みも 危 ( あやう ) くコツコツと角の磨滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心 窃 ( ひそか ) に念じているのである。 [#改ページ]

第十一 夕陽 附富士眺望

東都の西郊 目黒 ( めぐろ ) に 夕日 ( ゆうひ ) ヶ 岡 ( おか ) というがあり、 大久保 ( おおくぼ ) に 西向天神 ( にしむきてんじん ) というがある。 倶 ( とも ) に夕日の美しきを見るがために人の知る所となった。これ元より江戸時代の事にして、今日わざわざかかる 辺鄙 ( へんぴ ) の岡に杖を 留 ( とど ) めて 夕陽 ( ゆうひ ) を見るが如き愚をなすものはあるまい。しかし私は日頃 頻 ( しきり ) に東京の風景をさぐり歩くに当って、この都会の美観と 夕陽 ( せきよう ) との関係甚だ浅からざる事を知った。 立派な二重橋の眺望も城壁の上なる松の 木立 ( こだち ) を越えて、西の空一帯に夕日の 燃立 ( もえた ) つ時最も偉大なる壮観を呈する。暗緑色の松と、 晩霞 ( ばんか ) の濃い紫と、この夕日の空の 紅色 ( こうしょく ) とは独り東京のみならず日本の風土特有の色彩である。 夕焼 ( ゆうやけ ) の空は堀割に臨む白い 土蔵 ( どぞう ) の壁に反射し、あるいは夕風を 孕 ( はら ) んで進む 荷船 ( にぶね ) の帆を染めて、ここにもまた意外なる美観をつくる。けれども夕日と東京の美的関係を論ぜんには、 四谷 ( よつや ) 麹町 ( こうじまち ) 青山 ( あおやま ) 白金 ( しろかね ) の 大通 ( おおどおり ) の如く、西向きになっている一本筋の長い街路について見るのが一番便宜である。 神田川 ( かんだがわ ) や 八丁堀 ( はっちょうぼり ) なぞいう川筋、また 隅田川 ( すみだがわ ) 沿岸の如きは 夕陽 ( せきよう ) の美を 俟 ( ま ) たざるも、それぞれ他の趣味によって、それ相応の特徴を附する事が出来る。これに反して麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通、芝白金から 目黒行人坂 ( めぐろぎょうにんざか ) に至る街路の如きは、以前からいやに 駄々広 ( だだっぴろ ) いばかりで、何一ツ人の目を 惹 ( ひ ) くに足るべきものもなく全く 場末 ( ばすえ ) の汚い往来に過ぎない。雪にも月にも何の 風情 ( ふぜい ) を増しはせぬ。風が吹けば 砂烟 ( すなけむり ) に行手は見えず、雨が降れば 泥濘 ( でいねい ) 人の 踵 ( きびす ) を没せんばかりとなる。かかる無味殺風景の山の手の大通をば幾分たりとも美しいとか何とか思わせるのは、全く 夕陽 ( ゆうひ ) の関係あるがためのみである。 これらの大通は四谷青山白金 巣鴨 ( すがも ) なぞと処は変れど、街の様子は何となく 似通 ( にかよ ) っている。昔四谷通は新宿より 甲州 ( こうしゅう ) 街道また 青梅 ( おうめ ) 街道となり、青山は 大山 ( おおやま ) 街道、巣鴨は板橋を経て 中仙道 ( なかせんどう ) につづく事江戸絵図を見るまでもなく人の知る所である。それがためか、電車開通して街路の面目一新したにかかわらず、今以て 何処 ( どこ ) となく駅路の 臭味 ( しゅうみ ) が去りやらぬような心持がする。殊に広い一本道のはずれに淋しい冬の落日を望み、 西北 ( にしきた ) の 寒風 ( かんぷう ) に吹付けられながら歩いて行くと、何ともなく遠い行先の急がれるような心持がして、電車自転車のベルの 音 ( ね ) をば駅路の鈴に見立てたくなるのも 満更 ( まんざら ) 無理ではあるまい。 東京における 夕陽 ( せきよう ) の美は若葉の五、六月と、晩秋の十月十一月の間を以て第一とする。山の手は庭に垣根に到る処 新樹 ( しんじゅ ) の緑 滴 ( したた ) らんとするその 木立 ( こだち ) の間よりタ陽の空 紅 ( くれない ) に 染出 ( そめいだ ) されたる美しさは、下町の 河添 ( かわぞい ) には見られぬ景色である。山の手のその 中 ( なか ) でも殊に木立深く鬱蒼とした処といえば、 自 ( おのずか ) ら神社仏閣の境内を択ばなければならぬ。 雑司 ( ぞうし ) ヶ 谷 ( や ) の 鬼子母神 ( きしもじん ) 、 高田 ( たかた ) の 馬場 ( ばば ) の 雑木林 ( ぞうきばやし ) 、目黒の不動、 角筈 ( つのはず ) の 十二社 ( じゅうにそう ) なぞ、かかる処は空を蔽う若葉の間より夕陽を見るによいと同時に、また晩秋の 黄葉 ( こうよう ) を賞するに適している。夕陽影裏落葉を踏んで歩めば、 江湖淪落 ( ごうこりんらく ) の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい。 ここに 夕陽 ( せきよう ) の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である。夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならずその麓に 連 ( つらな ) る 箱根 ( はこね ) 大山 ( おおやま ) 秩父 ( ちちぶ ) の山脈までを望み得る。青山一帯の街は今なお最もよくこの眺望に適した処で、その他 九段坂上 ( くだんざかうえ ) の 富士見町通 ( ふじみちょうどおり ) 、 神田駿河台 ( かんだするがだい ) 、 牛込寺町辺 ( うしごめてらまちへん ) も同様である。 関西の都会からは見たくも富士は見えない。ここにおいて 江戸児 ( えどっこ ) は水道の水と合せて富士の眺望を東都の 誇 ( ほこり ) となした。西に富士ヶ根東に 筑波 ( つくば ) の一語は誠によく武蔵野の風景をいい尽したものである。文政年間 葛飾北斎 ( かつしかほくさい ) 『富嶽三十六景』の 錦絵 ( にしきえ ) を 描 ( えが ) くや、その 中 ( うち ) 江戸市中より富士を望み得る処の 景色 ( けいしょく ) 凡 ( およ ) そ十数個所を択んだ。 曰 ( いわ ) く 佃島 ( つくだじま ) 、 深川万年橋 ( ふかがわまんねんばし ) 、 本所竪川 ( ほんじょたてかわ ) 、同じく本所 五 ( いつ ) ツ 目 ( め ) 羅漢寺 ( らかんじ ) 、 千住 ( せんじゅ ) 、目黒、 青山竜巌寺 ( あおやまりゅうがんじ ) 、青山 穏田水車 ( おんでんすいしゃ ) 、 神田駿河台 ( かんだするがだい ) 、 日本橋橋上 ( にほんばしきょうじょう ) 、 駿河町越後屋店頭 ( するがちょうえちごやてんとう ) 、 浅草本願寺 ( あさくさほんがんじ ) 、 品川御殿山 ( しながわごてんやま ) 、及び小石川の 雪中 ( せっちゅう ) である。私はまだこれらの錦絵をば一々実景に照し合した事はない。それ故例えば深川万年橋あるいは本所竪川辺より江戸時代においても果して富士を望み得たか否かを知る事が出来ない。しかし北斎及びその門人 昇亭北寿 ( しょうていほくじゅ ) また 一立斎広重 ( いちりゅうさいひろしげ ) らの古版画は今日なお東京と富士山との絵画的関係を尋ぬるものに取っては絶好の案内たるやいうを 俟 ( ま ) たない。北寿が 和蘭陀風 ( オランダふう ) の遠近法を用いて描いたお茶の水の錦絵はわれら今日 目 ( ま ) のあたり見る景色と変りはない。 神田聖堂 ( かんだせいどう ) の門前を過ぎてお茶の水に臨む往来の最も高き処に 佇 ( たたず ) んで西の 方 ( かた ) を望めば、左には対岸の土手を越して九段の高台、右には 造兵廠 ( ぞうへいしょう ) の樹木と並んで 牛込 ( うしごめ ) 市 ( いち ) ヶ 谷 ( や ) 辺 ( へん ) の木立を見る。その間を流れる神田川は水道橋より牛込 揚場辺 ( あげばへん ) の 河岸 ( かし ) まで、遠いその眺望のはずれに、われらは常に富嶽とその麓の連山を見る光景、全く名所絵と異る所がない。しかして富嶽の眺望の最も美しきはやはり浮世絵の色彩に似て、初夏晩秋の 夕陽 ( せきよう ) に照されて雲と霞は 五色 ( ごしき ) に輝き山は紫に空は 紅 ( くれない ) に染め尽される折である。 当世人 ( とうせいじん ) の趣味は大抵日比谷公園の老樹に電気燈を点じて奇麗奇麗と叫ぶ 類 ( たぐい ) のもので、 清夜 ( せいや ) に月光を賞し、 春風 ( しゅんぷう ) に梅花を愛するが如く、風土固有の自然美を敬愛する風雅の習慣今は全く地を払ってしまった。されば東京の都市に夕日が 射 ( さ ) そうが射すまいが、富士の山が見えようが見えまいがそんな事に頓着するものは一人もない。もしわれらの如き文学者にしてかくの如き事を口にせば文壇は 挙 ( こぞ ) って 気障 ( きざ ) な 宗匠 ( そうしょう ) か何ぞのように 手厳 ( てひど ) く 擯斥 ( ひんせき ) するにちがいない。しかしつらつら思えば 伊太利亜 ( イタリヤ ) ミラノの都はアルプの 山影 ( さんえい ) あって更に美しく、ナポリの都はヴェズウブ火山の 烟 ( けむり ) あるがために 一際 ( ひときわ ) 旅するものの心に記憶されるのではないか。東京の東京らしきは富士を望み得る所にある。われらは 徒 ( いたずら ) に議員選挙に奔走する事を以てのみ国民の義務とは思わない。われらの意味する愛国主義は、郷土の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に 力 ( つと ) むる事を以て第一の義務なりと考うるのである。今や東京市の風景全く破壊せられんとしつつあるの時、われらは世人のこの首都と富嶽との関係を軽視せざらん事を 希 ( こいねご ) うて 止 ( や ) まない。安永頃の俳書『 名所方角集 ( めいしょほうがくしゅう ) 』に富士眺望と題して

名月や富士見ゆるかと 駿河町 ( するがちょう ) 素竜 半分は江戸のものなり 不尽 ( ふじ ) の雪 立志 ( りゅうし ) 富士を見て忘れんとしたり 大晦日 ( おおみそか ) 宝馬

十余年 前 ( ぜん ) 楽天居 ( らくてんきょ ) 小波山人 ( さざなみさんじん ) の 許 ( もと ) に集まるわれら木曜会の会員に 羅臥雲 ( らがうん ) と呼ぶ 眉目 ( びもく ) 秀麗なる 清客 ( しんきゃく ) があった。日本語を 善 ( よ ) くする事邦人に異らず、 蘇山人 ( そさんじん ) と 戯号 ( ぎごう ) して俳句を吟じ小説をつづりては常にわれらを 後 ( しりえ ) に 瞠若 ( どうじゃく ) たらしめた才人である。 故山 ( こざん ) に 還 ( かえ ) る時一句を残して曰く

行春 ( ゆくはる ) の富士も拝まんわかれかな

蘇山人湖南の 官衙 ( かんが ) にあること 歳余 ( さいよ ) 病 ( やまい ) を得て再び日本に来遊し 幾何 ( いくばく ) もなくして 赤坂 ( あかさか ) 一 ( ひと ) ツ 木 ( ぎ ) の寓居に歿した。わたしは富士の眺望よりしてたまたま蘇山人が留別の一句を想い 惆悵 ( ちゅうちょう ) としてその人を 憶 ( おも ) うて 止 ( や ) まない。